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平成の虚無僧一路の日記

桑名藩主「松平定敬」 

2013年03月07日 外部ブログ記事
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桑名の名勝「六華苑(ろっかえん)」は、明治に財を築いた
「諸戸清六」の邸宅で、国の重要文化財になっています。
正月ここで琴の演奏がありました。

その「六華苑」の南 数百mの所に、「九華公園」があります。
こちらが桑名城跡です。(まぎらわしい・・・)

幕末の桑名藩主は「松平定敬」です。尾張徳川の分家、
美濃高須藩主「松平義建」の八男で、12歳の時、桑名の
久松松平家に婿養子としてはいります。「義建」は子だくさんで、
次男は「尾張藩主・徳川慶勝」。三男は「石見浜田藩主・
松平武成」。五男は「御三卿の一橋家当主・一橋茂栄」。
七男が「会津藩主・松平容保」で、九男が「桑名藩主・
松平定敬」。

つまり、会津藩主「松平容保」の弟です。それで「容保」が
京都守護職になると、弟の「定敬」は「京都所司代」に
任ぜられます。この時「定敬」わずか17歳。

慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見で桑名藩は会津とともに
進撃しますが、藩主・定敬は慶喜に強いられて、容保と
ともに江戸に遁走します。

藩主不在で、桑名藩では“お家大事”と、官軍に
降服し、城を焼かれてしまいます。帰る城を失った
「定敬」は、会津から函館まで流浪の身となります。
この時21歳。「松平容保」の名声に隠れて、その
行跡はあまり知られていません。現在の桑名の人たちも
会津ほど、戊辰戦争には関心ないようです。

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