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平成の虚無僧一路の日記

会津藩、殿様の首と借金問題 

2013年03月05日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



2009年に書かれた記事。
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会津藩は世の中の流れが読めずに、それに逆らった
ということですね。利発な西国諸藩と、頑迷固陋で
愚鈍な東北諸藩ということですね。地理的特性なのか
風土性なのか教養の違いなのか。

徳川慶喜はすでに恭順の意を示しているのに、容保は
やらなくてもよい戦争をやって、家臣を大勢死なせ、
17歳前後の白虎隊士もたくさん死んで、領民に迷惑をかけ、
自分は日光東照宮の宮司におさまって のうのうと生き延びた。
戦後すぐ、農民たちが暴動を起こしているので、いかに
農民たちからも嫌われていたか判ります。

容保ってホント酷い大名だったのですね。現在の会津市の
人たちや会津ファンの人たちは、そういう真実の歴史を
知っているのでしょうか?
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つい20年前(今もかな?)、高校の日本史の教科書にも
このように書かれてありましたから、一般にはそんな
歴史認識なのでしょう。(そのページを私は破り捨てました)。

「やらなくてもいい戦争」なら、やらなかったでしょう。
慶喜に逃げられて、今さら、徳川に義理立てする筋合いも
なかったのですから。
会津藩が抵抗したのは、「禁門の変」と「長州征討」の
意趣返しで「容保の首を差し出せ」と強要されたからです。
会津藩士5千人が、戦わずして おめおめと殿様の首を
差し出すことなど できようはずもありません。

ま、その結果、3千人の命が失われたのですから、
殿様の首一つと、藩士3千人の命が引き換えというのは、
現代人には理解できないこどなのでしょうか。

会津藩士は、徳川への忠義の為ではなく、武士としての
誇りのために戦っただけです。


また、「会津藩が 降服した後すぐ、農民による
ヤーヤー一揆が起きたことから、会津藩は過酷な
税の取立てをやって、農民達の反感を得ていた」と
いう論調はしばしば見受けられます。

今までの歴史は、人物中心でしたが、最近漸く経済的な
面が研究されるようになってきました。考えてみれば、
会津藩士 1千人が 20日かけて京都まで上るのに、今
のお金に換算して1億円はかかったでしょう。それが、
毎年1千人が入れ替わり、365日京都に駐在するのですから、
その費用だけで 50億。5年で 250億。外国から
2千丁もの鉄砲や大砲、弾薬の購入費用は100億。

長岡藩の河井継之助が購入した「ガトリング砲」は
2門で1万両。今のお金で 50億円ともいわれます。

会津藩は、藩士から給金の半分を借り上げたり、
御用商人たちから350億円もの借金をしています。

現在、会津若松市の歳入が150億円ですから、
その倍以上の借金を抱えることになります。

家老の西郷頼母が、「藩の財政は火の車、会津藩は
滅びる」と訴えるのも切実だったのです。それもこれも
「京都守護職」のお役目ゆえ。

『八重の桜』では、どこまで解き明かしてくれるで
しょうか。

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