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平成の虚無僧一路の日記

松平定敬は「松平定信」の子孫? 

2013年03月07日 外部ブログ記事
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琴古流尺八の大家「三世荒木古童」の門弟に
「松平定敬」の写真があり、説明書きに
「松平定信の孫」とありました。顔から
察するに「桑名藩主・松平定敬」のようです。

「松平定信」は(福島県)白河藩主で、寛政の
改革を行った人として有名です。

「松平定敬」は美濃の高須松平義建の子ですから、
「松平定信」と血はつながりません。

Wikipediaで調べてみました。

桑名藩主は、本多、久松松平、奥平、そして
再度、久松松平と4度藩主の国替えがありました。

白河藩主だった「松平定信」は寛政の改革の後、
失脚し、家督を「松平定永」に譲り、桑名への
国替えを幕府に願い出ます。

「定信」自身は桑名には赴かなかったようですが、
桑名では今も、「定信」の血筋であることを誇りに
しているようです。

「定信」は、実は8代将軍「吉宗」の孫で、一時期、
田安家を継ぎ、いずれは第10代将軍・徳川家治の後継と
目されていたのでしたが、田沼意次を「賄賂政治」
として批判したため、疎まれて、白河藩2代藩主・松平
定邦の養子とされたのでした。

定信から3代目の松平定猷が死去すると、嫡男「定教」は
まだ幼少であったため、多事多難の折、美濃高洲藩から
「松平定敬」を 初姫の婿養子として迎えたのでした。

鳥羽伏見の敗戦で「定敬」が失踪したため、藩では、
官軍に降服し、先代の実子「定教」を藩主として
お家再興を図った。

会津藩の「容保」も養子でありながら、藩士が主君に
忠節を尽くしたのと対象的に、桑名藩は、養子の殿様を
さっさと放り出してしまった感があります。

でも、実情はもっと複雑で、詳しくはこちら。

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