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平成の虚無僧一路の日記

千葉県富津と会津 

2010年08月01日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



一泊で海水浴に行った。鋸山も風景もなつかしい。
地引網や鰻を釣ったことも思い出に残っている。が

子供の頃は知らなかったが、保田のすぐ北が「富津」。
ここは幕末、ペリー来航に備えて会津藩が陣屋を築き
警備していた所だった。

そして、なんと、富津が会津藩の支藩だったとは、
今日ネットで検索していて知った。

徳川秀忠の落胤正之が、高遠の保科正光に預けられ、
保科家の嫡流として会津保科松平家の祖となる。

正光には子が無く、弟「正貞」を嫡子としていた。
ところが、将軍の胤を押し付けられて、「正貞」は
廃嫡となり、諸国を流浪していた。なんと哀れな。
保科正之が3代将軍家光と兄弟の対面をし、会津藩主
となったことで、保科家の血族である「正貞」は
千葉県富津で「飯野藩1万5千石」の大名に取り立て
られたのだ。

幕末、戊辰戦争で会津藩主容保の姉君として登場して
くる「照姫様」は、この飯野藩の保科家から養女として
迎えられていたのだ。

そして明治2年、戊辰戦争の責任を負って、萱野権兵衛
長修が切腹させられた場所が、江戸の飯野藩邸だった。

飯野藩は知っていたが、それが千葉の富津で、しかも
会津の支藩だったとは知らなんだ。

会津のことは何でも知っているつもりだったが、まだまだ
知らないことがあった。

ところで、私の父の墓は、この富津の北、長南町の町営
墓地にある。そこが「安かったから」と、母と妹で勝手に
決めて買った墓地だ。会津と縁もゆかりも無い所に葬って
良かったのかと思っていたが、房総の地もまた会津と
関わりが深かったのだ。


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