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平成の虚無僧一路の日記

会津藩の駐屯地となった黒谷「金戒光明寺」 

2013年02月19日 外部ブログ記事
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『八重の桜』第6回。いよいよ会津藩主「松平容保」が
京都守護職を拝命して、藩兵1千名を率いて上洛。
文久2年(1862)12月24日 京都黒谷の「金戒光明寺」に
入った。

「金戒光明寺」は、法然上人が比叡山の黒谷から出て、
はじめて草庵を営まれた地。浄土宗の最初の寺であり
親鸞もここで法然に学んだ。

京都御所の東2km。寺域約4万坪。小高い山になっていて、
京都の市街が見下ろせる。大方丈と大小52もの宿坊があり、
会津藩兵1千名を収容することができた。

会津藩は、慶応3年(1867)までの5年間、藩士の3分の1
ずつを交代させながら、ここに駐留させた。その間に
元治元年(1864)「禁門の変(蛤御門の変)」が起き、
22人が戦死。慶応4年(1868)正月の「鳥羽伏見」では
115名が戦死した。
意外なのは、それ以外に5年間で 2百名以上が病気などで
亡くなっているのである。

急な階段を上っていくと、山の上の方に約300坪の敷地に
『会津藩殉難者墓地』が有り、237柱の墓がある。

会津藩士は大半が神道なので、この墓地は光明寺から
借りているようだ。光明寺に永代供養料を納めた時の
報志者の名盤に、私の父「牧原五郎」をはじめ 叔父たちの
名前が刻まれていた。

牧原一族では「牧原宗仲」の墓がある。「宗仲」は
西洋医術を学びに京都に派遣され、禁門の変での
負傷者の手当てにあたり、過労で倒れたと伝えられて
いる。23歳だった。

同志社女子大のHPに「黒谷・西雲院にみる八重の
おもかげ」と題して、山本八重が「会津藩墓地での
慰霊祭」に参加した時の貴重な写真が載っていました。

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