メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

黒谷みやげに銘菓「八ツ橋」 

2013年02月19日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



20年ほど前、初めて黒谷の「金戒光明寺」を訪れた時、
タクシーの運転手さんに「黒谷」と 行き先を告げると、
「お客さん、通(つう)ですね」と云われた。その頃は
観光で訪れる人は稀だった。

2004年NHK大河『新撰組』が放映された時、金戒光明寺も
「京都守護職本陣」を観光宣伝するようになり、客足も
増えた。

その「金戒光明寺」には、なんと近世筝曲の祖「八橋検校」の
墓もある。

「京都のおみやげ」といえば「八ツ橋」。「八橋検校」に
因んで、「箏」のカタチをしたニッキ菓子として知られている。

ところが、「本家西尾の八ツ橋」は「伊勢物語や謡曲『杜若
(かきつばた)』の舞台となった『三河の国の八橋(現 知立
(ちりゅう)市)』の故事から名付けたと主張している。

「働きに出た母の後を追った二人の幼い子が、川を渡ろうとして
溺れ死んだことから、その供養に 浮き板を八枚ならべて橋を
造った」という話。

その話から、西尾家の先祖が、橋に似せた米の粉の煎餅を
創った。そして、それを 1689年(元禄2年)に、聖護院の森の
黒谷(金戒光明寺)参道で売ったのが始まりという。

「京で一番古い八つ橋やさん」を宣伝文句にしているが、
「橋」では、上が曲面になっている説明がつかない。
その「西尾の八ツ橋」も 現在のカタチになったのは、
明治38年(1905年)とのこと。


一方の『聖護院八ツ橋総本店』では、「八橋検は貞享2年
(1685年)に亡くなり、黒谷金戒光明寺に葬られた。その後、
師のご遺徳を偲び門弟たちが、絶え間なく墓参に訪れるようになり、
1689年(元禄2年)黒谷参道の聖護院の森の茶店で、琴の形に
似せた干菓子を、「八ツ橋」と名付けて発売するようになった」と。

どちらも「1689年」創業と唱えている。「知立の八橋」か
筝曲の「八橋検校」か、さて軍配はいずれに。

ひょっとすると・・・・・。
「八橋検校」は、元は「上永検校」という名だった。それを
「八橋」と改名したのは、 三河の「八橋」に因んだのでは
ないだろうか。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ