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宗光寺 

2013年01月25日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

宗光寺

   三原城 天守台

  発掘調査中とのことです。

刻印がある石             H?
  発掘中

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宗光寺
泰雲山宗光寺は天正五年(1577)小早川隆景が毛利元就夫婦を弔うため新高山城内に建てたものですが、(雲門山匡真寺)三原城築城の際、城下の西側を守る砦も兼ね、この地に移されました。                                                宗光寺参道                     

 
文禄元年(1592)徳川家康が、約三万の軍勢を引き連れ朝鮮に向かう途中、
城中などが一望でき、戦略上重要な地にある宗光寺を開放して宿舎にあてました。
 
この隆景の歓迎に対して家康は、「城中より高い所に泊まるのは失礼にあたる」と、境内下にあった小早川16代繁平の菩提所、一株院に泊まったといわれています。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
    山門(国重要文化財)
小早川家代々の居城であった新高山城の城門をここに移築したものと伝えられます
四足門の切妻造り、本瓦ぶきの桃山時代の建築で、昭和28年に国の重要文化財に指定されています。                                      
 この山門は、四脚門としては最大級の規模をもち、木割が太く、蟇股(かえるまた)などの細部に桃山時代をしのばせる豪快な手法が見られます。          

 


凝った蟇股

 
 
 
 
 
 
 
 
 
山門下から

本堂

 

鐘堂

地蔵堂

 

七層石塔婆

石塔婆付近からの風景
境内からは三原城が見えません。

 
本堂裏、横の墓地には五輪塔、宝筐印塔が多く有ります。

広島藩筆頭家老 三原浅野家第二代。
浅野忠長の墓

一族の五輪塔


 

福島正則の姉の子で正則の甥にあたります。             
正則の長男、正友が早世したことにより正之を養嗣子となりました。
  慶長12年(1607年)正則は正之が狂疾であることを幕府に訴え幽閉し、
ついに餓死に至らしめたとのことです。                 
23歳の若さでした。                             
     
    正則の実子が次々に産まれたため除かれた説もあります。           
室町末期、完品の宝筐印塔
浅野忠長の五輪塔の隣です。


反対側から これらも見事な塔
この墓地には他にも五輪塔、宝筐印塔があります。

山門 境内から

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