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平成の虚無僧一路の日記

「戸ノ口原」の戦闘 

2013年01月03日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



テレビドラマでは、白虎隊も官軍と派手に斬り合いを
しているが、戸の口原の戦死者数はわずか68名。
白虎隊士の戦死者は実は一人もいない。戊辰戦争では、
白兵戦はほとんど行われていない。大砲と鉄砲の銃撃戦だ。

実は、私の直接の先祖「牧原源八郎」は、嫡男ではないから
「石つぶし」。北会津村の名主「新田」家に寄宿し、
村人に読み書きソロバンを教え、医術なども施していた。

「官軍、会津に迫る」との知らせに、槍をもって城に向かい、
叔父の「牧原奇平」について戸の口に向かった。「敢死隊」は
郷頭、肝煎、代官、支配役で編成されていたのだ。

だから、隊員は、鉄砲も持たない非侍である。槍と刀では
大砲、鉄砲には太刀打ちできない。みな逃げ出し退却して
しまったと思われる。白虎隊の生き残り「飯沼貞吉」の
証言でも、「一晩中砲声が鳴り響き、世が明ければ、
西軍は続々と街道を進軍してきた」とある。西軍とは
一戦もまじえず、ひたすら山中を逃げまどっていたのだ。

「牧原源八郎」は、戸の口原で、左腕に鉄砲玉が当たって
負傷した。叔父の「奇平」は、強清水まで退却して、
敵を防ぎきれなかった責任を負って自刃した。
「源八郎」は叔父を介錯して、左腕に被弾したまま、
城の南を廻って、北会津の新田家まで戻った。そこで
手当てを受け、一命を取り留めたのだ。その鉄砲玉は
60歳すぎてポロリと出てきた。その「鉛玉」が当家の
家宝になっている。
一族では8人が戦死か自刃して亡くなっている。
「源八郎」ただひとり、鉄砲傷を負い、城外の名主
「新田家」に匿われたことで、血脈が存続し、私がいる。。

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