メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

会津藩でも「奇兵隊」 

2013年01月03日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「奇兵隊」をWiki-Pediaで引くと「会津藩にも“奇兵隊”が
あった」ことになっている。詳細は書かれていない。

どうやら、「正規の武士ではない、農民・町人から成る隊の
呼称」として「奇兵隊」をとらえているようだ。

8月22日、西軍が母成峠を破って、猪苗代に侵攻してきた時、
会津藩としては、正規軍が越後、日光口に出払って留守のため、
農民、力士、僧侶まで狩りだし、戸の口に向かわせた。その隊名は

・「奇勝隊」 正奇隊(正規侍の意)、 半士半農の地方(じかた)御家人
・「修験隊」 山伏、修験者
・「力士隊」 力士
・「僧侶隊」 僧侶
      
・「農町兵 新錬隊」義勇兵、士分
・「敢死隊」 郷頭、肝煎、代官、支配役

その数 約500人ほどという。しかし、所詮、鉄砲など
撃った事もない寄せ集めの烏合の衆。どうやら、塹壕堀りに
狩り出されたようだ。正規兵は「白虎士中二番隊」の 50名のみ。

牧原の祖「牧原奇平」は、60歳で郡(こおり)奉行だった。
それで、半士半農の地方御家人を駆り集め「奇勝隊」として
戸の口へ向かった。名前が「奇平」というので「牧原奇平隊」と
「奇兵隊」を混同したのではないだろうか。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ