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平成の虚無僧一路の日記

「西郷頼母」は「合気道」の祖? 

2013年01月02日 外部ブログ記事
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『白虎隊』の冒頭で、西郷頼母がみずから藩校「日新館」で
子供たちに「空手」を教えていた。

最近、「西郷頼母」について「合気道」の祖という説が
浮上してきました。

会津藩には「御留流」という武術があり、それを
「西郷頼母」が秘かに? 伝承していたというのです。

徳川将軍家のご指南役となった「柳生流」は、
攻撃よりも、襲われた時に、相手の力を制止し、
小手を打つという“防御”を中心にしています。

会津藩の「御留流」も、正に字の通り、敵の攻撃を
“留める”ための護身術でした。筆頭家老として
藩主の側近くに仕える身として、もし、殿様に
危害を及ぼす者があれば、刀を用いずに制する
という防御術を身に付けていたのです。

幕末の動乱期に、会津藩は京都守護職として、幕府や
公家の要人を警護する役回りにあり、そのために
家老「西郷頼母」は「御留流」を藩士に伝授しようと
していたというのです。

「西郷派大東流」という合気道の古流があって、
その「由緒書」にそのように書かれているそうです。

「西郷頼母」は、明治になって、「志田四郎」を
養子にしています。「姿三四郎」のモデルになった
「西郷四郎」です。頼母は、彼に会津藩の「御留流」を
彼に伝えたかったとのだというのです。

しかし、西郷四郎は、嘉納治五郎に師事し、「講道館
柔道」の四天王となって、合気道とは一線を画すように
なります。それで西郷四郎と「頼母」の親子の縁は
疎遠になったということも理解できます。

「防御・護身術」の西郷頼母だったからこそ、
徹底して「反戦」を唱えたのかと、新たな面が
浮かび上がってきました。これまでの“弱虫、
逃げ腰”という評価は改めるべきかと思います。

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