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平成の虚無僧一路の日記

「吉野織部之助」のご子孫からコメント 

2012年11月06日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



昨年、8月に書いたブログに、なななんと「吉野織部之助」の
“ご子孫”という方からコメントをいただきました。
転載させていただきます。
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はじめまして
『のぼうの城』を映画で見まして、こちらのページを
参照させていただきました。いろんなことをよくご存じ
なのですね。わたしは吉野織部之助の子孫です。
ご先祖ながら詳しく知らず、勉強させていただきました。
ありがとうございました

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えええっー!です。ご子孫の方から、詳しくお聞きしたいのに・・・。
昨年(2011)8月20日のブログも転載しておきます。

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虚無僧寺を統括する本寺の「鈴法寺」は、江戸から
数十キロ離れた「青梅」に在りました。東京の西のはずれです。

「鈴法寺」が青梅に建てられた経緯は、旧家の吉野家に
伝わる古記録から明らかにされています。

吉野家の先祖「吉野織部之助」は、後北条氏の家臣で、
行田市の忍城主に仕えた武士であったが、落城後、
青梅に新田を開拓して、その名主となった。ある時、
かつて忍城で戦死した同僚(秋山惣右衛門)の子(惣太郎)に
出会う。父を失った惣太郎は、虚無僧となり「月山養風」と
号し、葦草村(いぐさむら=川越市)に住んでいるという。

そこで、吉野織部之助は、かつての同僚の倅でもあり、
開拓地の66区画の屋敷割りの中から三区画を寄進し、
鈴法寺を建て、庇護したという。

「忍城」とは、現在の行田市。まさに、今封切られている
映画『のぼうの城』のことです。

これほどまで具体的に経緯が明らかになっているのは
稀有なことですが、落城時「惣太郎」は5歳くらいの
子供だったはずです。それが成人して、道で会って
「やぁ、なつかしい」と判るものなのだろうか。
惣太郎の虚無僧の師は誰だったのか。
川越の葦草に居た時も、虚無僧寺「鈴法寺」だったの
だろうか。いろいろ疑問が残ります。

琴古流の古典本曲に『葦草鈴慕』というのがあります。
青梅に移る前の「葦草」時代に「月山養風」が作曲した
ものなのだろうか。「葦草」を偲んで作ったものでしょうか。
いずれにしても、古典本曲の中では、江戸時代初期の
かなり古い曲ということになります。

「鈴法寺」の歴代住職の『過去帖』というものが残されていますが、
その生歿年は 全くデタラメです。初代が鎌倉時代で、2代目が
いきなり江戸時代。かと思うと、次は室町時代の年号だったり、
時系列にそろっていないのです。ただ知っている年号を適当に
書いたとしか思えないのです。チンプンカンプン。「虚無僧の
デタラメ」ここに極まれり。

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