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平成の虚無僧一路の日記

「安井算哲」と「山崎闇斎」 

2012年09月29日 外部ブログ記事
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「安井算哲」(後「渋川春海」と改名)は、本職は棋士。
数学・暦法を池田昌意に、天文暦学を岡野井玄貞・松田順承に、
垂加神道を山崎闇斎に、土御門神道を土御門泰福に学んだ。

当時の日本は貞観4年(862年)に唐よりもたらされた「宣明暦」を
用いていたため、かなりの誤差が生じていた。そこで21歳の時に
中国の「授時暦」に基づいて各地の緯度を計測し、その結果を
元にして「授時暦改暦」を願い出た。ところが、延宝3年(1675年)、
算哲が「授時暦」に基づいて算出した日食の予報がはずれたことから、
申請は却下された。

算哲は、その誤差は、中国と日本の里差(経度差)によるものと
気づいた。そこで、「授時暦」に通じていた朱子学者の中村?斎の
協力を得ながら、自己の観測データを元にして、日本向けに改良を
加えた「大和暦」を作成した。


さて『天地明察』で「山崎闇斎」が登場してくる。Wiki-Pediaによれば、
「山崎闇斎」は、京都で浪人の子として生まれ、幼くして比叡山に
入り、ついで臨済宗の妙心寺に移って禅僧となる。19歳のころ
土佐の「吸江寺」に移り、湘南宗化の弟子となる。

(「吸江寺」に関係していたとは知らなかった)。

「土佐南学派の谷時中から朱子学の手ほどきを受け、また野中兼山や
小倉三省らとの交わりのなかで、朱子学への傾倒を深め、寛永19年
(1642年)25歳で還俗して儒者となった。

寛文5年(1665年)、会津藩主保科正之に迎えられ、藩政の助言者として
活躍する。領内の寺院・神社の整理をおこない、神仏習合を排除した。
また吉川惟足の影響で、神道研究にも本格的に取り組むようになり、
神道と儒学を統合して、「垂加神道」を開いた。

磐梯山麓にある保科正之の墓の造営、墓誌の制作は「山崎闇斎」で
ある。山崎闇斎の強烈な神道かぶれで、会津藩士は皆、菩提寺を捨て、
神道となったのである。

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