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平成の虚無僧一路の日記

信長も改暦せんとしていた 

2012年09月30日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



『天地明察』で「信長も改暦せんとして、非業の死を遂げた」と
いうようなセリフがありました。丁度、中日新聞の「水軍遥かなり」
で、信長も改暦しようとしていたことが書かれています。

日本の暦は、貞観4年に採用された「宣明暦(せんみょうれき)」以来、
七百年以上も改定されず用いてきたために、日食や月食についても
予想することさえできなくなっていた。そこで、全国各地でそれぞれ
暦が作られており、信長は「暦」の統一を図らねばと感じていた。
そして、西洋の暦法を調べさせ、信長自身、イタリアの宣教師から、
地球が球体であること。コペルニクスの太陽中心の天道説を聞いて
知っていたといいます。

『織田信長考』159より

その信長でしたが、朝廷でも秘かに 西洋天文学に通じていた
「加茂マノエル在政」を呼び寄せていた。

暦についての争論は天正十年一月二十九日に行われた。

「美濃暦」の友長の問いに、加茂在政は西洋天文学の知識を
駆使して易々と応じた。しかも学識の深さは、友長や弥助よりも
はるかに勝っていた。

争論は友長の敗色濃厚のうちに時間切れとなり、結論は翌日に
持ち越された。翌日も争論が続いたなら、信長は面目を失い、
前久は加茂在政を陰陽頭に任じざるをえなくなっていたかも
しれなかった。

この後 信長は 急遽 甲斐武田攻めに出陣し、武田勝頼を
滅ぼして帰京後に本能寺の変が起きて、信長は殺されるので
ある。

それにしても『天地明察』の100年前に、信長は 西洋の
天文学、コペルニクスの天道説を理解し、また それに通じる
人が居たとは恐るべし。

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