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たかが一人、されど一人

みっともない 

2012年06月09日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

婆さんが大きなボウル一杯の青い山椒の実から小枝を取り除いている。こんなに大量の山椒をどうするのかと聞くと、この時期しかこんなに大量の山椒を買い込むことが出来ないのだそうだ。これで佃煮のように煮込んで1年分をストックし、後で煮物などに利用するらしい。今年は天候不順で、ラッキョの実なんかも同じそうだが、出回るのが例年に比べるとかなり遅くなっているらしい。見ていると実を右手で持って左手で枝を折っている。「私は本当は左利きなのよ。子供の時に女の子のくせに左利きとはみっともない、との事で強制的に右手で箸を持つようにされたの。最近”みっともない”なんて言葉を聞かなくなったでしょう。」確かに最近あまり聞かなくなった。個性が大流行りだから、人と違うことをした方が格好いいくらいの話だ。どうでもいい話だが、子供の頃長野の方言か子供の符丁かで「みぐせえ」とか「みいせい」と言う言葉があって、「みいせい真似しなさんな」と叱られたり、自分でもよく使った事を思い出した。どんな場面で使ったのかは正確には思い出せないが、よく言われるように半世紀も前には、箸の持ち方だけでなく身だしなみ一般から、あらゆる振る舞いに関して「恥ずべき事、みっともない事」がきっと沢山あったのだろう。21世紀も10年以上過ぎてしまうと、他人の目を意識して己を顧みる必要が殆ど失われてしまっている。これが福沢諭吉先生の仰る命に代えても守るべき『自由』だとすればそれで善いのかもしれない。国会の福島原発事故調では、公衆の面前で大の大人が責任のなすりあいをし合っている。別次元の事を上げれば、大の大人が節電に役立つからとて、人前でだらしない姿を晒すのが公然化している。とても近所の高校生のだらしない恰好を注意できる話ではない。こんなことを言ってもピンとこないかもしれぬが、小学校に上がる前の夏、母が庭先に盥を置いて行水をしていた。外を歩く人から植え込み越しに透けて見えていたかもしれない。当時はそれをあまり恥ずかしいとは思わなかったのだろう。屋敷の中で許される事、人前で許される事にはの自ずから違いあるべきだ。

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