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平成の虚無僧一路の日記

「なよたけの碑」 

2012年06月04日 外部ブログ記事
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会津藩筆頭家老「西郷頼母」の屋敷は、鶴ヶ城の正面、
「追い手門」前にありました。今、別のところに、
観光用に「武家屋敷」があり、時代劇のロケなどに
使われていますが、西郷邸を復元したものだそうです。
敷地400坪、部屋数35もあります。

(私の父の実家「牧原」の本家もそのくらいあります)

さて、この「追い手門」前の西郷邸では、慶応4年
(1868)の8月23日、「西郷頼母」の妻子と親戚縁者
21人が自刃するという惨劇が起きました。

早鐘の「西軍来る」の報に、城に逃げ込む時間は十分
あったはずですが、「西郷頼母」の城内での微妙な立場を
家族は感じていたのでしょう。「反戦」を主張して
「卑怯者、弱虫」の謗(そし)りを受けていた「頼母」の
名誉のためにも、母と妻子は自刃したのです。

主「頼母」と一子「吉十郎」を送り出すと、一家全員、
死に装束に威儀を正し、砲声を聞きながら、辞世の句を
認(したた)めて、従容(しょうよう)として死につきました。

「頼母」の母 「律子」(58歳)の辞世は
「秋霜飛兮金風冷 白雲去兮月輪高」

そして「頼母」の 妻「千重子」(34歳)の辞世が
「なよ竹の 風にまかする身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ」

以下、妹 眉寿子(26歳)
「死にかへり 幾度世には生きるとも ますら武雄と なりなんものを」

妹 由布子(23歳)
「武士の道と 聞きしをたよりにて 思いたちぬる黄泉の旅かな」

「頼母」の次女 「瀑布子」(13歳)が上の句
 「手をとりて ともに行きなば まよわじと」と上の句を詠み、

 長女 「細布子」(16歳)が
 「いざ たどらまし 死出の山みち」と下の句をつなげたと云います。

あの混乱のさ中、こうした話しが伝えられていることが、私には
不思議でならないのですが、このシーンは、年末時代劇『白虎隊』
はじめ数々のドラマの名場面として演じられています。

私も子供の頃から幾度となく聞かされ、辞世の句は、すべて
諳(そら)んじていました。

今、「鶴が城」東の「青木山」のふもとにある「善龍寺」の墓地に
「なよ竹の碑」があります。

なお、この日、白虎隊士 20名も飯盛山で自刃しました。
その中、蘇生した「飯沼貞吉」は、西郷頼母の妻「(飯沼)千恵子」の
甥にあたります。

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