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平成の虚無僧一路の日記

「西郷頼母」と「西郷四郎」 

2012年06月03日 外部ブログ記事
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明治12年に、一子「吉十郎」を亡くし、天涯孤独と
なった「西郷頼母」は、明治13年、旧藩主「容保」が
日光東照宮の宮司となった際、自分も日光の禰宜(ねぎ)と
なって 「容保」を補けます。

「禁門の変」の際、会津への引き上げを進言して、
「容保」の怒りをかった「頼母」でしたが、月日が
去ってみれば、「容保」も「あの時、頼母の意見を
取り入れていれば、会津藩士3千名の命を失わずに
済んだもの」と、反省したのかもしれません。

この頃、同じ会津藩士の「志田貞二郎」の三男「四郎」を
養子に迎えます。「容保」の仲立ちがあったのでしょうか。

志田四郎は、3才の時、会津戦争に遇い、家族とともに
津川(現:新潟県阿賀町)に逃れます。そして16歳で
「西郷頼母」の養子となり、「福島県伊達郡霊山町の
霊山神社に宮司として奉職する頼母に育てられ、頼母から
柔術の手ほどきを受ける」と云われているのですが、
「頼母」が「霊山」の宮司になるのは、明治22年の
ことで、辻褄が合いません。

「西郷頼母」の養子となった「四郎」は、1882年(明治15年)
には上京して、陸軍士官学校の予備校であった成城学校
(新宿区原町)に入学し、天神真楊流柔術の井上敬太郎道場に
通いますが、同流出身の嘉納治五郎に見いだされて講道館へ
移籍し、わずか半年で 1883年(明治16年)「初段」を
取得します。講道館最初の「初段」免許でした。

養父「頼母」は、前述のとおり、明治20年、日光から
一旦会津に帰り、同22年、福島市東の「霊山神社」の
宮司となります。「霊山神社」は 南朝の忠臣「北畠親房・
顕家・顕信・顕時・守親」を祀り、明治19年に別格官幣
大社となった神社でした。

「頼母」は明治32年、会津に帰り、旧藩邸から100mばかり
離れた「十軒長屋」でひっそりと暮らし、明治36年、
73歳で亡くなりました。辞世の句は

「あいづねの遠近人(おちこちひと)に知らせてよ
 保科近悳今日死ぬるなり」

最後は「西郷頼母」ではなく、先祖の姓「保科近悳」として
亡くなったのでした。

この間、養子の「西郷四郎」は、明治22年には講道館を
出奔して大陸に渡り、後、長崎で「新聞」の発行に携わったり
しながら、最後は 1922年(大正11年)尾道で亡くなります。

二人の経歴を見る限り、親子としての接触はほとんど無いに
等しいのです。ですから、西郷頼母が「四郎」を養子にした
経緯、その後の関係については、“知ろう”としても
まったく不明なのです。

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