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平成の虚無僧一路の日記

829年前「日蝕」で源氏が負けた? 

2012年05月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「日蝕」を「ラジオ体操」のメンバーとともに
見ました。その時、大野社長が「源平の合戦の時、
日蝕が起きて、源氏が負けたそうな」というような
ことを話され、私はそのことを知らず、「源氏が
負けたことがあったのか」と??でした。

「史学科」卒の私としては、「知らない」では
すまされぬ、早速、ネットで調べました。

『源平盛衰記』にその記述があるそうです。
負けたのは「義経(よしつね)」ではなく
「木曽義仲」の軍勢でした。

「平家追討」の綸旨を受けて、いち早く京に
上り、平家を都から追い出したのは「木曽義仲」
でした。

1183年11月17日。京を追われた平家は四国(現
高松)の屋島で 四国九州の諸将に呼びかけを
行っており、これを討たんと、木曽義仲は、
水島「現岡山県倉敷市)に兵を差し向けます。

ところが、海の戦いには経験の無い「義仲」勢
でしたから、平家の水軍に散々打ち負かされて
しまいます。これが「水島の合戦」です。

さて「日蝕が起きた」というのは『源平盛衰記』
のみで『平家物語』にはありません。

「平家軍は、宋との貿易で得た『太平御覧』で、
その日に日蝕がある事を知っていた」というのですが、
WikiPediaで『太平御覧』を見ると、日本に伝来した
のは「1199年(慶元5年)」とあり、平家方がそれを
見ていたのか疑問です。

また、見ていたとしても、「日蝕」が見れるのは
地域が限定されており、中国の書に「この日、
水島の地で日蝕が見れる」とは書いてはなかった
はずです。「易」から日本でも陰陽師たちに
よって独自に算出されていたのでしょうか。

また、WikiPediaでは、「歴史上の日蝕の記録」
として、この年は載っていません。「日蝕」が
無くとも、舟戦(ふないくさ)に長けていた平家が
経験のなかった源氏を破ったことは間違いない
ようです。

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