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平成の虚無僧一路の日記

「新羅三郎義光」とは 

2012年04月25日 外部ブログ記事
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当家の始祖は「新羅(しんら)三郎義光」と伝えられる。

清和源氏の祖「源頼義」に3人の子があった。
長男が「八幡太郎義家」、次男が「賀茂次郎義綱」、
三男が「新羅三郎義光」。それぞれ、「石清水八幡宮」、
「賀茂神社」、「大津園城寺(三井寺)の新羅大明神」で
元服したことにちなんでの神号名である。

長男「義家」は、「義朝とその子頼朝、義経」の祖先。
三男「義光」は「武田」「佐竹」「南部」「小笠原」氏の
祖である。武田の一族に「牧原姓」が連なる。

新羅三郎義光は、弓馬の術にたけ、また「笙」を吹いた
ことで「文武両道」の士とされた。柔道・合気道の元と
なった「大東流合気柔術」では、「義光」を開祖としている。
また、流鏑馬、弓術、馬術、礼法の流派である小笠原流や
武田の軍学、兵法なども「義光」の流れである。

というわけで、韓国では「新羅義光を日本に雅楽や武術を
伝えた新羅人の子孫」とまで言い放っているそうな。

では、「義光」が元服式を挙げた「大津園城寺(三井寺)
の新羅大明神」とは何ぞや?。

園城寺(三井寺)は、壬申の乱で敗れた「大友皇子」の
菩提を弔うために、勝者の「天武天皇(大海人皇子)」
が建てさせた寺だそうだ。創建は686年と伝えられる。

やがて、200年の歳月が経ち、園城寺も衰退していたのを、
智証大師「円珍」が再興した。この「円珍」が唐へ留学
の帰途、嵐に遭い、そこへ「新羅の神」が現れて救われた
ことから、三井寺の守り神として「新羅明神」を祀った
とか。

「義光」が、その「新羅明神」で元服式を挙げたのは、
いかなる理由なのか、単なる、たまたま“そこで”
なのだろうか。

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