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平成の虚無僧一路の日記

壬申の乱 

2012年04月26日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



大津の園城寺(三井寺)は、壬申の乱で敗れた「大友皇子」の
菩提を弔うために、勝者の「天武天皇(大海人王子)」が
建てさせた寺だそうだ。このように、滅ぼした相手の菩提を
弔うため、怨霊を鎮めるために寺や神社を建てることは、
他にも見られる。出雲大社、安国寺などもそうである。

最近、日本の古代史が塗り替えられつつある。
「壬申の乱」は、天智天皇の子「大友皇子」と、天智の
弟「大海人王子」の争いとされているが・・・・・・。

朝鮮半島では「新羅・高句麗・百済」の三国時代が、
4世紀から7世紀までの300年間も続いた。そして、
日本にも この三国の支配が及び、倭人と四つ巴に
なって争っていたという。

倭人は、新羅と百済双方と和を保つため、両国から
交代で「王」を迎え入れていた。つまり、日本の天皇は
「万世一系」ではなく、朝鮮の王族であるという。

秦氏や蘇我氏は新羅からの渡来人で、仏教を広め、
倭人の物部氏を滅ぼした。その蘇我氏も百済系の
中大兄王子によって殺される。

660年、百済が「唐の援助を得た新羅」に攻められると、
中大兄皇子(天智天皇)は、百済を支援して、白村江で
「唐・新羅連合軍」と戦うが 惨敗する。

このため、天智天皇は「百済」からの難民を多く受け入れ、
「新羅」の侵攻に備えて、都を奈良盆地の飛鳥から
琵琶湖南端の江宮へ移した。「滋賀の大津の宮」である。

朝鮮半島では「唐と新羅の連合軍」によって「高句麗」も
滅びた。すると今度は「唐」と「新羅」の間で紛争が起きた。

新羅は唐の援助で百済を滅ぼしたのだが、今度は、旧百済、
旧高句麗の武将を駆り立て、「唐」を朝鮮半島から追い出
そうとした。

そこで、唐は天智天皇に、新羅征伐に加わるよう要請して
来た。これに反対したのが新羅出身の大友王子である。
天智と大友は兄弟とされているが、実は、天智は百済系、
大友は新羅系の王族だった。大友王子は秘かに天智を
誘拐して暗殺し、天智の子「大海人王子」も殺し、
帝位につきて「天武天皇」となった。これが「壬申の乱」
である。


なるほど、「大化の改新」から「壬申乱」までの
不可解な政争が、新羅(しらぎ)と百済(くだら)の勢力
争いだったとなると容易に説明つく。
(なに、しらねぇ? くだらん?)

「日本書記」は、「新羅王朝系」の天皇が「万世一系」の
であることを 作為的に書かれたものだという。


というわけで、大津の園城寺(三井寺)は、新羅系の
「天武天皇(大海人王子)」が、百済系の「大友皇子」の
怨霊を鎮めるために建てたものだが、寺の守護神としては
自らの祖国の「新羅明神」を祀ったのだ。

そして、清和天皇(新羅系)の末裔である「清和源氏」も
当然、祖は「新羅人」であることを知っており、源義家は
秦氏(新羅系)の氏神「八幡宮」で、義光は「新羅明神」で
元服した。

なるほど なるほど、すぐ納得してしまう私。となると、
しまった!、「新羅三郎義光は新羅人だった」という説に
はまってしまった。

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