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平成の虚無僧一路の日記

「女の貞操」は 江戸時代から? 

2012年04月17日 外部ブログ記事
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「袈裟御前」の話は「良人への貞節を守り通した女の鏡」
とされているが「ちょっと待て」である。平安時代は
『源氏物語』が描くように、性には実におおらかだった。
「一夫一婦制を建前とする貞操観念」なんてなかったはずだ。

「袈裟御前」が「盛藤」の刃にかかって死んだのは、
「盛藤」が教養の無い乱暴者で、母も良人も殺しかねない
脅迫に屈したまでのこと。

つまり、「遠藤盛遠と袈裟御前」の話は、江戸時代の
創作ではないかと私は考える。

日本人の性は、中世まで、実に自由奔放、おおらかだった。
平安時代は「妻問い婚」で、男が女のもとに通う。
今日は誰、明日はどこぞへと通っていく。犬猫と一緒だ。

室町時代、一休の父は第100代「後小松天皇」だが、
「後小松」は、先帝「後円融」の皇后「厳子」と
「足利義満」との間にできた子と噂される。となると、
一休は「足利義満」の孫でもあるのだ。

その一休も性は自由奔放。しかも男色女色両刀使い。
「稚児に飽きて今夜は妻を抱こう」などと公言して
はばからない。実際 一休にも子供がいた。

足利義政の妻「日野冨子」などは、応仁の乱のさ中、
天皇や公家たちと五年間も「花の御所」に引きこもり、
毎晩、乱交パーティだった。他にすることはない。

秀吉にいたっては もう手当たり次第、大名や公家の
妻だろうが、娘だろうが、3,000人を犯した。

それに鉄槌を下したのが、徳川二代将軍「秀忠」。
「秀忠」は、わが娘を入内させるに当たり、天皇の
周囲の風紀粛清のため、、六名の公家を「乱行の罪」で
処罰した。流罪。公家たちにしてみれば、フリー(不倫)
セックスは『源氏物語』の昔からの因習であるから、
天地ひっくり返る大騒動だった。

秀忠の正室は「お市」の三女「お江」。秀忠は
恐妻家だったが、それでも「お江」に隠れて、
お女中に手をつけている。そして生まれたのが、
保科正之。会津藩祖となった「保科正之」にも
側室は何人かいたが、家臣には「不倫」を厳しく
禁じたのだった。

こうして、江戸時代になって「一夫一婦制」と
「妻の貞操観念」が生まれたのである。

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