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平成の虚無僧一路の日記

「袈裟御前」 

2012年04月16日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



遠藤盛遠と袈裟御前の話は『平家物語』には無いそうだ。
異本では「遠藤盛遠」ではなく別人になっている。

『平家物語』では「遠藤盛遠」は「ある事情で出家した」
とあるのみ。

「袈裟御前」との話は『源平盛衰記』にあるとのことだが、
ネットでみた『盛衰記』には「生年十八歳にて、糸惜き
(いとおしき)女に後れて髪を切て遁世しき」とあるのみ
だった。

「異本」の方に書かれているようだが、いつ頃書かれたのか
が気になる。芥川龍之助、菊池寛、吉川英治も書いている
のだが、それぞれかなり脚色していて、年齢など事実と
つじつまが合わないのもある。

落語に『袈裟御前』というのがあるらしい。
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【主な登場人物】
 遠藤盛遠(後の文覚上人)・袈裟御

源の頼朝が鎌倉幕府を開いたのが、え〜、覚え方、習いましたやろ、
「ヨイクニつくろ」、西暦4192年。( ?? )

その「頼朝」のお父さんといぅ方が「源義朝(よしとも)」。
平治の乱で平清盛に敗れて、京を逃れ、終わりは尾張の国、
野間で殺されてしまった。

そして、捕らえられた頼朝は、命助けられ、伊豆へ流された。
二十年間 伊豆で暮らしてたんです。伊豆で……、踊り子と
遊んだり。そこへやってまいりましたのが「文覚上人」。
「もんがく しょうにん」
「上人」ちゅなね、お坊さんのこと言ぃまんねん。日蓮上人、
親鸞上人、ベニスの商人。

「文覚上人」、京都から「平家追討」の院宣を携えてきた。
もひとつ、首にぶら下げてきたのが、なんと父「義朝公」の
しゃれこうべ。それを、頼朝の前に差し出して、「さぞ、
お父上は無念でございましたでしょ〜」と、仇討ちを
そそのかす。

でも、見たらお父っつぁんの頭蓋骨、なんか小(ち)っこ
かったらしぃ、疑問に思った頼朝「父上のにしたら ちょっと
小っさいのんとちゃう?」。すると文覚上人 答えていわく
「それはお父上さま“8歳”の時のものでして」。

文覚さんちゅうのは口八丁、手八丁、ああいえばじょうゆう。
生易しぃボンさんではございません。荒法師、修験者。
京都から8日で空飛んできたというんですから。

十九歳のときに出家をいたしまして、和歌山の那智山に
篭(こも)ること千日。冬の寒いときは首まで滝壷につかって
呪文を唱え、また夏の暑いときには素っ裸でもって 竹薮で
暮らしながら呪文を唱えた。「坊主が屏風に上手に坊主の絵を
描いた、坊主が屏風に……」。ヘビ・カエル・ムカデ・ゲジゲジ・
ケムシ・ミズムシ・チャワンムシ……、夏ですからどんどん
出てまいります。緊張の連続ですなぁ……、日本の夏、
緊張の夏。

そして頼朝を担ぎ出して平家討伐を企むといぅ坊さんですから、
根性が座わっております。それもそのはず、この方は本名を
「遠藤盛遠(もりとぉ)」と申しまして、北面の武士。同僚に
平清盛、のちの歌の名人西行法師なんかがおったと申します。

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※ そう、40年ほど前、私は「鶴が岡八幡宮」の宝物館で、
「義朝8歳の頭蓋骨」というのを見た記憶がある。

※ 平清盛と盛遠は20歳離れているので、「同僚」では
ない。

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