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平成の虚無僧一路の日記

『花嫁人形』に歌われた「柳原白蓮」 

2012年04月08日 外部ブログ記事
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大正12年「関東大震災」の前後、大杉栄・伊藤野枝の他にも
一大スキャンダルで騒がれた女性がいた。
歌人「柳原 白蓮」 1885年(明治18) - 1967年(昭和42)。

父は「柳原前光」伯爵。京都の公家の出で、大正天皇の
生母・柳原愛子の兄。「白蓮」は大正天皇の従妹に当たる。

白蓮の母は「柳原前光」の妾のひとり「りょう」。なんと
「りょう」の父親は、江戸幕府の外国奉行で咸臨丸の
「遣米使節団長」だった「新見正興」。 明治2年に父親が
亡くなり、「りょう」は柳橋の芸妓となっていたのだ。
それだけでも、私はワクワクする。

「白蓮」は、 14歳で、北小路資武と結婚させられ、翌年、
15歳で男子を出産した。しかし5年後に離婚。

1911年(明治44年)、27歳で、父親ほどの年の 52歳の
九州一の炭坑王「伊藤伝右衛門」と再婚させられる。
伊藤の金目当ての結婚であり、「金で買われた結婚」と
世間では噂した。

『金襴鍛子の帯締めながら、花嫁御寮は何故泣くのだろう』
という歌や、菊池寛の『真珠夫人』という小説は 白蓮が
モデルといわれている。

伊藤伝右衛門は 飯塚市に敷地1500坪、建坪250坪の自宅が
あったが、さらに福岡市天神と別府に別邸を建て、?子を
迎え入れた。

伊藤伝右衛門には何人もの妾がおり、白蓮は、夫を挟んで
妾と3人で布団を並べて寝たこともあったという。

「伊藤伝右衛門」は、この若い妻をいたわり可愛がった。
短歌に打ち込む妻のために大金をかけ豪華な歌集を出版
してもやった。別府の「赤胴御殿」は、歌人や劇団員の
サロンとなった。処女作「踏絵」以降、次々と作品を発表、
中央歌壇にも認められた白蓮は、やがて帝大生の「宮崎龍介」と
恋に堕ち、宮崎の子を宿す。

1921年(大正10)、白蓮は伝右衛門と上京した機会に
失踪し、「宮崎龍介」のもとに走った。そして、伊藤
伝右衛門への「絶縁状」を こともあろうに大阪朝日新聞
上で公開した。

「私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に
永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り
且培ふ為めに貴方の許を離れます」という内容だった。

伊藤は大恥をかかされたが、太っ腹だった。離婚を認め、
白蓮は華族から除籍され、財産も没収されて、晴れて
宮崎と結婚する。

白蓮と宮崎との間に生まれた子は、昭和20年終戦直前の
8月11日、鹿児島県鹿屋の特攻基地で戦死。そのことも
あつて「白蓮」は、戦後、平和運動に参加し、熱心な
活動家として知られた。晩年は貧しくも平穏な生活を
送り、1967年(昭和42年)死去(81歳)。

私が大学に入った年だ。「白蓮」のことは 母からよく
聞かされていた。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

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