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平成の虚無僧一路の日記

『平城山』の歌詞は? びっくり仰天の真実 

2012年04月07日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



『宴の桜』さんからのコメントで、『平城山』の歌詞に
ついて検索してみて、ドドドドド゛びっくり仰天 テンテンテン。

『平城山』は、「北見志保子」の二首の和歌に、平井康三郎が
琴の響きを取り入れて作曲した名曲とのこと。どうりで琴、
尺八が合う。

さて「北見志保子」って誰??。この『平城山』の歌詞
だけで知られる歌人らしい。

『平城山』の歌詞は、大正9年「磐之媛皇后の御陵」の前で詠んだもので

 「平城山に もとほりきつつ 堪へがたかりき」

 「古も つまに(を) 戀ひつつ 越えしとふ 平城山のみちに 涙おとしぬ」

(註)「つま」は古歌では「夫」のこと。最近「妻」と書いたものが多い
とのこと。それでは 男女が逆転する。

 
歌の意味は、「人を恋することは哀しいものです。平城山に さ迷って
きましたが、やはり堪えがたいものです。昔も 夫を恋しいと思いながら
平城山を越えてきた女性がいました。その平城山の道に私も涙を落として
しまいました」というもの。

「昔、平城山を越えてきた女性」とは「仁徳天皇の皇后・磐之媛(いわのひめ)」。
皇后が紀州の旅に出ている間に、仁徳天皇が八田媛を妃に迎えたことで、
皇后の磐之姫は怒って筒城宮(つづきのみや)へ帰ってしまったという。
天皇の后は皇后の他に何人かいるのが普通だった時代だから、「皇后は
嫉妬深かい女性だった」と『古事記・日本書紀』に書かれているそうな。

さて、問題は一番の句。

「人を恋するのは辛く哀しいもの」というその真意だ。
北見志保子は 歌人「橋田東声」の妻だったが、東声の弟子で、
自分より12歳も年下の「浜忠次郎」と恋に落ちる。周囲は
「浜忠次郎」を遠ざけるため、フランスに追いやってしまう。
その「浜忠次郎」への想い、なさぬ恋の苦しさを詠んだのだ
そうだ。

さて さて さぁて、「浜忠次郎」と聞いてビックリ仰天。
実業家の御曹司で「慶応」を出て、フランスに留学した
「浜忠次郎」って「千代田生命の社長」も務めた人では
ないか?私は「千代田生命広報部」で「社史」の編纂に
携わっていたから「浜忠次郎」の名は知っていた。
まさかまさかである。「北見志保子」なる12歳も年上の
女性の恋の相手だったとは知らなかった。

北見志保子は、大正9年、奈良に移り住んでこの歌を詠み、
大正11年「橋田東声」とついに離婚し、大正12年9月の
「関東大震災」を機に東京に帰り、13年、フランスから
帰国した「浜忠次郎」と結婚した。

生まれたのは「明治一八年」だが、村の戸籍係に頼み込んで、
「1本」書き足してもらい「明治二八年」と、戸籍を改竄し、
10歳 サバ読んでの入籍だったという。だから北見志保子は
「60歳で歿」と云われているが、実際は「70歳で歿」だった
のだ。

『平城山』の歌詞は、北見志保子が、後の千代田生命社長
となる「浜忠次郎」を恋慕って詠んだ詩とは、信じられな?い。

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