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平成の虚無僧一路の日記

フリー(不倫)ラブ 

2012年04月06日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



今やラブホテルに格堕ちした「フリン(不倫)ス・ホテル」
とはよく言ったものだ。不倫横行の平成の世から
90年も前に、「一夫一婦制」を否定し、自由恋愛を
身をもって示した人がいた。アナーキスト(無政府
主義者)の大杉栄だ。

中日新聞の夕刊に、瀬戸内寂聴が寄稿している
「この道」は読み応えがある。
瀬戸内寂聴は、昭和40年(1965)「文芸春秋」に
『美は乱調にあり』を連載し、大杉栄と3人の
女性を書いた。

それを書くにあたって、寂聴は 大杉たちを知る
何人かの生き証人に直接会って、克明に取材して
いるのだ。そして、大杉をめぐる3人の女性の
葛藤、嫉妬、争いを、まるで その場に居合わせた
かのように活写している。


大杉栄は 内妻の「堀保子」が居りながら、東京日々
新聞記者の「神近市子」という愛人と同居していた。
そこへ、伊藤野枝が夫の辻潤を捨てて、押しかけてくる。
大杉は「フリーラブ(自由恋愛論)」を書き、野枝も
「一夫一婦制」を批判する声明を出して、世の批判を
浴びる。

3人の女性は、それぞれ合意納得の上で同居していた
かと思いきや、寂聴の筆写では、すさまじい四角関係だ。
ついに、葉山の日蔭茶屋で神近市子が大杉を刺し、
瀕死の重傷を負わせるに至る。(日蔭茶屋事件)

最後に勝ち残った伊藤野枝は大杉を独占し、10年の間に
5人もの子をもうけている。長女の名は「魔子」。

そして大正12年(1923)9月1日の関東大震災から間もない
16日、伊藤野枝は、大杉栄と大杉の甥・橘宗一とともに
憲兵に連れ去られ、その日のうちに憲兵隊構内で惨殺
される。首謀者は「甘粕大尉」。遺体は、畳表で巻かれ、
古井戸に投げ捨てられた。享年28。


寂聴はこう書いている。「その理不尽な死が、なぜか
私には悲壮には感じられても、みじめには感じられな
かった。私にはその死が光を放っているような気が
してならなかった。見方を変えれば、最愛の男と殺される
ということは、与えられた心中ともいえないだろうか」と。

皮肉にも、大杉を刺した神近市子は、戦後も生き続け、
1953年衆議院議員選挙に社会党より出馬して当選。
以後6回の当選を重ね、1957年の「売春防止法成立」に
尽力し、昭和56年に亡くなっている。寂聴は神近市子
本人から、大杉栄と野枝のことも取材しているのだ。

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