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平成の虚無僧一路の日記

尺八を吹いた殿様、宇土藩主・細川月翁 

2012年04月03日 外部ブログ記事
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熊本といえば「加藤清正」だが、1632年(寛永9年)清正の子・
「忠広」の時改易となり、豊前小倉城主だった細川忠利が
肥後54万石の領主として熊本城に入った。以後230年に
渡って、熊本は「細川氏」の領国だった。

1646年、細川忠興の四男「立孝」に、熊本市の南西に
突き出た宇土(うと)半島の地が与えられ「宇土藩3万石」が
できる。肥後細川家の分家(支藩)だ。

その「宇土藩」の6代目藩主「細川興文(おきのり)公」は
尺八が大好きでござった。「興文」は享保8年(1723)の生まれ。
延享2年(1745)、22歳で宇土藩主となり江戸に住む。
明和9年(1772)、48歳で隠居し宇土に帰り「月翁」と号す。
そして天明5年(1785)、62歳で没するまで、書画、篆刻、
俳句、茶道、などなどの趣味に生き、文化人として領民の
親しみと尊敬を集めていた。

その趣味の一つが「尺八」。藩主在任時からこっそり尺八を
吹いていたと思えるが、表向きは公言できない。そして
隠居してから、堰を切ったように、二代黒沢琴古に師事し、
国へ帰るまでの7カ月で、「琴古流本曲」18曲を習得し、
尺八の製管法までマスターした。そして「尺八譜」や
「覚え書き」、奏法や製管法について琴古に送った質問状と
琴古からの「回答書」など貴重な史料を多く残した。

自ら製管した尺八の他、「琴古」や「古鏡」作の尺八3管が
伝来している。その他、30本余りの尺八についての詳細な
記録もある。

この「細川月翁公遺品」によって、江戸中期の虚無僧全盛期の
尺八が解明されるのである。内容は虚無僧研究会の小菅大徹師
によって『一音成仏』第20〜25号に詳述されている。

「細川月翁公」は虚無僧本寺「一月寺」から「虚無僧本則
(免許状)」を得ているが、虚無僧尺八というよりは、
音楽として楽しんだようだ。長短異なる尺八との吹き合わせ
から、1尺3寸管や2尺5寸管との合奏も行っている。

さらには作曲までしている。琴古流の「鳳将雛(ほうしょう
びな)」という曲は「細川月翁」の作曲と云われている。
殿様らしい、派手で雅(みやび)な曲である。

尺八は、上は「宇土の殿様」から、下は無頼の輩まで
幅広い層に愛されたのだ。

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