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平成の虚無僧一路の日記

「山鹿素行」って? 

2012年04月02日 外部ブログ記事
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「大石内蔵助」といえば「山鹿流陣太鼓」。
吉良邸討ち入りの際、「山鹿流の陣太鼓」を
打ち鳴らしたというのは、芝居の上だけの話。
夜討ちを掛けるのに太鼓など鳴らしたら、みな
起きてしまう。それに近所迷惑だ。実際「山鹿流
兵法」に“太鼓の打ち方”など無いそうだ。

「山鹿流」とは、山鹿素行の説いた軍学、兵法。

山鹿素行は会津の生まれ。会津には「山鹿町」と
いう町名があり、「山鹿素行誕生の地」の立派な
石碑まである。「牧原」の本家筋がそこに住んで
いるので、子供の頃から「山鹿素行」については
知っていた。

山鹿素行が会津に居たのは6歳まで。父に
連れられて江戸に出、9歳で林羅山につき
朱子学を学ぶ。
その後、軍学や神道を学ぶようになって、
朱子学を批判したため、会津藩祖保科正之に
よって江戸を追放され、赤穂藩にお預けの身と
なっていた。

その10年の間に、浅野内匠頭や大石内蔵助に
軍学を教えた。山鹿素行の思想は吉田松陰に
まで影響を与え、幕府倒壊の火種となった。

つまり、会津藩は、かつて追放した山鹿素行に
よって滅ぼされたようなものだ。

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