メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

山本八重子と同志社 

2012年03月16日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「御園座」で 5月12日(土)〜5月27日(日) 公演の『会津の
ジャンヌ ダルク』は、新島襄の妻となった「山本八重子」のこと。

「山本八重子」は、会津藩の砲術師範「山本権助」の娘として生まれ、
兄「覚馬」とともに、幼少より砲術の訓練を受けていた。

会津戦争では、断髪し、男物の軍服を着て、7連発スペンサー銃を
持ち、自ら先頭に立って夜襲攻撃をかけたり、籠城戦では砲兵隊を
叱咤激励、指揮した。開城の時、城の壁に書き記した一首。

「明日よりは、いずこの誰か 眺むらん なれしお城に 宿す月影」

戊辰戦争で、父も弟も戦死。明治4年、兄覚馬を頼って京都に行く。
兄の覚馬は早くから洋学と洋式砲術を学び、会津藩を 洋式兵法に
改革するなど、先見の明があった。

幕末、会津藩が京都守護職として京都に駐留したおり、公用人として
他藩との折衝にあたり、また洋学の私塾を開いて、他藩の士も
受け入れていた。

だが、失明し、鳥羽伏見の時には、京都に留まっていて、官軍に
捕えられたが、薩摩の西郷隆盛とも知己であったことから命を救われる。

山本覚馬の活躍は、明治になってからがまたすごい。京都は“天子様”が
江戸に移ったことで、荒廃していた。そこで山本覚馬は、西洋の文物を
学んでいたこともあって、西洋の機械工業を取り入れ、京都に近代産業を
起し、日本最初の万国博覧会を開いている。

京都人の信頼篤く、府議会議員に推され、府議会議長も務めた。失明して
いるから議事録も読めないのに、どうやって議事進行をしてのか、すごい
記憶力である。

そして、新島襄から英語を学び、聖書を読み、キリスト教に改宗した。

妹八重子は、兄とともに新島襄に英語を習い、聖書の翻訳を手伝っている
うちに恋仲となり、新島襄と結婚する。その兄覚馬は、新島のために、
自宅(旧薩摩藩邸 6,000坪)を提供して、同志社英語学校を設立したのである。

山本兄妹がいなければ、「同志社」は無かった。同志社の設立は、
山本覚馬と妹の八重の力によるところが大であったのだ。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ