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平成の虚無僧一路の日記

新島襄「寒梅」 

2012年03月16日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



この時期、詩吟の会でさかんに詠じられるのが、新島襄の『寒梅』。

 庭上一寒梅   庭上(ていじょうの)一寒梅  

 笑侵風雪開   笑って、風雪を侵して開く

 不争又不力   争わず、また 力(つと)めず。

 自占百花魁   自ずから、百花の魁(さきがけ)を占(し)む


「庭先の一本の梅の木、寒梅は 風雪の中、笑っているかの様に、
 平然と咲いている。争って、力んで咲いているのでもなく、
 自然に 百花のさきがけとなっている」

新島襄は、明治になる4年前(1864年)22歳の時、函館から
密航し、上海を経てアメリカに渡った。日本は徳川幕府が
滅び、明治新政府の世となったが、明治3年(1870)には
アマースト大学を卒業(理学士)。日本人初の学士の学位を取得。

明治5年(1872)、アメリカ訪問中の「岩倉使節団」に会い、
木戸孝允の私設通訳となり、ヨーロッパに渡る。「使節団」が
帰国した後も、ドイツに滞在し、帰国するのは 明治7年(1874)。

日本の中でも最も因習深い京都で、これまた封建的な風土の
会津の女傑「山本八重子」と結婚し、西洋式の生活習慣で、
京都人の耳目を驚かし、さまざまな中傷や迫害にも臆すること
なく、キリスト教を広め、「同志社」を設立した。

その生き様は、まさに「寒梅」そのものだ。

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