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平成の虚無僧一路の日記

「親子の絆」 

2012年03月13日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「東日本大震災」後「親子の絆」がことさら言われるように
なった。家族7人が亡くなって一人遺された女の子の話には
涙を禁じえない。

だが、こんなことを書くと“袋叩き”にあいそうだが、
私は「家族の絆」には 人様よりは 冷ややかだ。

私の先祖は、会津藩だったから、一家の主は 蝦夷地や
江戸湾の警備、そして京都守護職と ほとんど不在だった。

会津戦争で、長老の「牧原一郎」は64歳。(今の私の歳だ)
「殿の足手まといになっては」と腹を切り、孫の「豊四郎」
14歳が介錯した。「一郎」の弟、息子、甥子6人が戦死し、
一族で生き残った者は3名。それぞれ、下北、北海道、
東京に出て辛酸をなめた。

「14歳の孫が 祖父の首を刎ねる」そんな恐ろしい話を、
私は子供の頃、「まだ100年前の、曽祖父の事」として
当たり前のことのように聞かされ育った。

私の父も 両親に早く死なれ、「家族の絆」は薄かった。
12歳から 親戚の家に寄宿して中学に通い、16歳で 東京に
出ての一人暮らし。そして慶応に入り、昭和16年 卒業後
五年間も中国に出征。戦後、引き揚げてきて結婚。しかし、
私が生まれてからも「東電」で 単身赴任が多かった。
だから 私も、父の記憶は数えるほどしかない。

そんな父を見て育ったからか、「家族の絆」は二の次
だった。結婚して、娘が二人生まれたが、妻も娘達も
それぞれ勝手に自分の生きる道を見つけ、自由に
生きればいいというのが、私の考えだった。

子供の進路を 親が決める権利は無いと思う。親の姿を
見て子は育ち、子は 親を踏み台にして、親を乗り越えて
いけばいいと思っている。

子供も早く独立させ、夫婦それぞれ生きる方向性が
違ってきたので 別れた。お互い、自主独立。
長い老後を 相手の犠牲になる必要は無いというのが
私の考えだった。

現代の「家族中心」の生活には、私は疑問を感じている。
行楽も 車に親子全員乗って出かける。食事も娯楽も
家族単位。公共のマナーや 他人との接し方を教えないから、
学校に上がっても、教室が「公共の場」という意識が無い。
勝手に私語し、歩き回る。行過ぎた過剰な「家族の絆」は
他者を排斥する。

「朝起会」では「捨て育て」を提唱している。これは
「放任主義」とも違い、「過干渉、過保護」、また逆に
「無関心」を戒めるものだ。私は当然と思うのだが、
これがなかなか理解されず“批判”の対象になっている。

「世の中 まちがってます!」とは「きみまろ」。
そう言いたい私は「古い人間でございますかねぇ」

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