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平成の虚無僧一路の日記

モリソン号事件をつなぎにして 

2012年02月19日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「日本史」に興味を持ち 深く探っていると、ひょんな
ところでつながるから面白い。今回も新発見。

「福沢諭吉⇒ 音吉=モリソン号=高野長英←虚無僧」と
つながった。

「モリソン号事件」とは?

1837年(天保8年)、モリソン号が突如浦賀沖に来航した。
ペリーより13年も前に外国船が浦賀に来ていたのだ。
しかしその時は、浦賀奉行が「異国船打払令」に基づき
砲撃を行って 撃退してしまった。

ペリーの艦隊とは違って、モリソン号は「商船」で非武装
だった。(海賊に襲われる危険があるから、大砲ぐらいは
積んでいたと思うがのぉ?)そして、日本人漂流民の
「岩吉、久吉、音吉、庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松の7名を
日本に送り届けてきたのだった。それを口実に、日本との
貿易、ならびに宣教師の日本布教の端緒を開こうというのが
目的だった。

何年もかかって、ようやく日本に帰ってきた「音吉」たち
にとって、砲撃を受け、上陸さえも拒否されるとは、
なんとむごいことだったろう。

幕府はこの事件も 民には知らせないはずだったが、「音吉」
たち漂流民を送り届けてきたという話は、オランダを通じて
1年後に判り、その噂は、じょじょに広がっていった。

蘭学者 渡辺崋山は『慎機論』を著し、高野長英は
『戊戌夢物語』を著して、幕府の対外政策を批判した。

隠していたことがバレ、「ご政道」を批判された幕府は、
面子にこだわり、崋山や長英らを逮捕、投獄してしまう。
(蛮社の獄)。しかしさすが処刑まではしなかったが、
長英は、放火騒ぎを起こして、牢破りをし、顔を薬品で
焼いて人相まで変え、潜伏したのだった。

虚無僧になれば顔を隠せたのに。士分ではなく、町医者
だったために拒否されたとか。ホントは、遠島破りや
無宿人もいたのだから、高野長英の話は「虚無僧」を
権威づけるための後世の作り話かと私は考えている。

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