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平成の虚無僧一路の日記

会津藩は時代の最先端にいた 

2012年02月19日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



最近になってようやく、会津藩が 1808年から明治維新の
1868年までの60年に渡って、樺太出兵、網走の経営、
江戸湾警備、そして京都守護職と、幕末動乱の火中に
ずっと身を置いていたことが明らかにされてきた。

私の中学の頃の「日本史」の教科書はひどいものだった。
「明治維新」のところでは、「会津藩はじめ、東北の
諸藩は、暗愚で、時代の流れが読めず、徳川に殉じようと、
官軍に抵抗して、鎮圧された」というような記載だった。

私は、怒り心頭、頭にきて、そのページを引き裂いて
しまった。

会津藩は、幕末まで京都守護職として幕府と朝廷の
接点におり、時代の流れを読んでいた。山川大蔵らを
ヨーロッパに派遣し、フランス人シュネルやアーネスト・
サトウを顧問として西欧の軍制を取り入れ、銃や大砲の
買い付けもしていた。
これは、タッチの差で新潟に上陸した官軍に分捕られて
しまった。会津の敗因はこの事にある。それまで、西郷や
大山巌、世羅修三らは、農民の寄せ集めの官軍が、
会津藩に勝てるのか、不安を抱いていたという。

白虎隊も 筒袖ダン袋の洋装にヤーゲル銃だったのだが、
これがドラマでは、刺し子の剣道着に、竹で編んだ
剣道の胴を突け、白黒ストライプの袴に火縄銃 という
のがお定まりのスタイル。会津藩兵は 鎧兜に刀槍という、
なんとも時代錯誤に描かれてきた。

これは、田宮虎彦の『落城』でもそうだ。『落城』は
東北の「黒菅藩」という架空の藩。あくまで“徳川の
恩顧に報いるため”、薩長に抗して、女子供まで
自決して全滅するというもの。あきらかに、戦国
時代までは「黒川」と呼ばれた「会津」をモデルに
している。東北人への偏見は、歴史学者も田宮寅彦と
同レベルの認識だったのだ。




       
       
       
   
       
       

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