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平成の虚無僧一路の日記

会津藩の樺太出兵 

2012年02月19日 外部ブログ記事
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1792年、ロシアのラクスマンが 大黒屋光太夫を伴って
根室に来航。1804年、レザノフが長崎来航し、ともに
ロシア皇帝の親書を携え、日露の通商を求めてきた。
しかし、鎖国を祖法とする江戸幕府は、これを拒絶。

しからば「武力で」と、ロシアは 1806年と1807年、
数回に渡って択捉島や利尻島に上陸し、日本の会所や
番屋を焼き払い、食料や武器などを略奪する暴挙を
繰り返した。「文化露寇」

1807年(文化4年)、幕府は、津軽(弘前)藩・会津藩・
秋田藩・弘前藩・仙台藩などに 蝦夷地の警備を命じる。


津軽藩は、藩士100余名を知床半島西岸の斜里郡(現
北海道斜里町)に派遣したが、厳冬で、72名が死亡した。
津軽藩はこれを恥として、この事件を極秘にした。

会津藩は、翌1808年(文化5年)から1809年(文化6年)に
かけて 樺太への出兵を命じられ、総勢1558名が、宗谷岬や
利尻島、樺太に駐留した。
この時、間宮林蔵が樺太探検に来、会津藩がその手助けを
していたことは意外に知られていない。

この年、ロシアはナポレオンとの戦争が始まり、兵力を
西に引き揚げたため、日本近海への侵攻は一度も無かった。

それで、樺太警備の任が解かれ帰国することとなった。
だが、悲劇は樺太からの帰途に起こった。嵐に遭って
船が難破し、51名の死者が出た。私の母方の先祖も、
遭難して秋田に漂着。1カ月半かかって会津に戻っている。

牧原の本家には『会津藩唐太出陣絵巻』の写しが 伝わって
いた。子供の頃見たが、会津藩は陣屋でも、鎧や槍などの
武具を飾り、「関が原の合戦」さながらの いでたちだった。

1500名の藩士が 旅館も飲食店も無い、道無き道の原野の中を、
アイヌ部落伝いに、北海道の北端まで行き、そこから船で
樺太まで渡ったのだ。そして真冬の厳寒。海も凍って魚も
採れない。野菜は勿論無い。想像を絶する過酷な生活を
強いられたのだ。

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