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平成の虚無僧一路の日記

漂流民「音吉」と福沢諭吉 

2012年02月17日 外部ブログ記事
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名古屋の南、伊勢湾に突き出た知多半島を旅していて、美浜で
ヒョンな碑を見つけた。「三吉の碑」というもの。

この美浜の船乗りだった「岩吉,久吉,音吉(乙吉)」の三人が
天保3年(1832)江戸に向かう途中,遠州灘で遭難し、
1年有余(14ヶ月)太平洋を漂流して、北アメリカに漂着した。
その後、英国人に買い取られて、ロンドンに連れて行かれる。

英国は、漂流民を送り届けるという口実で、日本に通商を
開かせようとした。そこで、商船モリソン号に、彼ら3人と
薩摩からの漂流民4人を乗せ、琉球経由で江戸湾浦賀に入る。

ところが、当時の幕府は「異国船打ち払い令」を敷いていた
ので、陸から砲撃し、撃退してしまった。「モリソン号事件」
である。

音吉たちにしてみれば、5年ぶりの祖国ニッポンだったが、
上陸を果たせなかった。

帰国をあきらめた「音吉」は 英国系の会社に勤め、シンガ
ポールでマレー系の妻と結婚し、3人の子持ちになる。

その後、日本を離れて30年後の文久二年(1862年)
「文久遣欧使節団」が、帰路シンガポールに立ち寄り、
使節団と会っている。その中に福沢諭吉もいた。

さて、美浜の「三吉の碑」だが、とんでもないことが書いてある。

「音吉は、福沢に 中国のアヘン戦争のことなど、いろいろ情報を
伝えたが、福沢の音吉を見る目は冷ややかだった。福沢に限らず
遣欧使節の士分の者からは、音吉は所詮 尾張の舟子という身分の
違う存在にすぎなかったようだ」

というもの。この碑は美浜のライオンズクラブが建てたものだが、
「春名徹著『にっぽん音吉漂流記』から引用」とある。

私は、『にっぽん音吉漂流記』を読んでいないが、これから派生して、
福沢諭吉について、このような文章も読んだ。

「音吉は福沢諭吉に英語を教えた一人だが、後世、福沢は
音吉のことをどこにも書き記していない。『士分の者が
船頭から英語を学んだことなど“恥”と思って、自分は無視
された』と音吉は恨みつらみを述べていた。

これは明らかにおかしい。福沢諭吉は音吉から英語を学んでは
いない。

さらに次の文も

「どうも、福沢は水夫に対する侮蔑感情があったらしい。
『天は人の上に人を作らず』とは 彼のコトバだが、
口だけの男だったのかもしれない』

なんということだ。春名徹は、一応「東大文学部東洋史学科
卒業」だが、ノンフェクション作家らしい。

音吉は、とうとう日本に帰れず、福沢諭吉に会った5年後の
1967年、シンガポールで亡くなっている。50歳だった。
明治維新の前年だ。福沢諭吉が、明治になって慶応義塾の
創始者として、啓蒙家として、有名人物になったことなど、
「音吉」は天国で知るわけで、会った時は、使節の随員の
一人で下級武士だった福沢諭吉のことを そのように思う
はずがない。


一方、福沢諭吉は「音吉」に会ったことを『西航記』に
きちんと書き記している。

「旅館にて日本の漂流人音吉なるものに遇えり。音吉は
尾州蔦(知多)郡小野村の舟子にして、天保三年同舟十七人と
漂流して、北亜米利加の西岸カリホルニーに着し、其後
英に行き、英国の戸籍に属して上海に住し、新嘉坡(シンガ
ポール)の土人を娶り三子を生めり。近頃病に罹りて、
摂生の為十日前本港に来り、偶(たまた)ま日本使節の
来るを聞き来訪せり。(略)」と。

「福沢が音吉を蔑視した」というような表現はみられない。
むしろ、遣欧使節は、半年にも及ぶヨーロッパ旅行で
莫大な情報を得て帰国の途中だ。そんな最後にシンガポール
での出来事は些細なことだったであろう。それでも福沢諭吉は
「音吉」のことを書き記した。福沢諭吉は、漂流民「音吉」の
存在を知らせた功労者であろう。

「音吉が福沢諭吉を憎んでいた」というのは、いったい
何を根拠にしているのだろう。音吉が会った時の印象を
日記にでも書いていたのだろうか。その「音吉の日記」は
どのような経緯で春名氏の手に渡ったのだろうか。

これは「春名徹」氏の恣意的な悪意に基づく創作としか
思えない。音吉は、円満な徳福家だったという。
「福沢諭吉を恨みながら死んでいった」などというのは、
「音吉」さんに対しても失礼なことではないか。

「音吉」さんと「諭吉」さん。あの世で再会を喜びあった
ことだろう。

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