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平成の虚無僧一路の日記

遠山の金さん 

2012年01月18日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「遠山の金さんの名セリフ『この桜吹雪が〜』の続きは?」
と聞かれると、「目にはいらぬかぁ!」と答えてしまう人が
大半とか。

正解は「この桜吹雪に 見覚えがねぇ とは 言わせねえぜ」。

それほど、『水戸黄門』の人気は高かった。「金さん」は
「大岡越前」と比較しても、イマイチ。

では「遠山の金さんって誰?」。
江戸時代の天保年間に 江戸の北町奉行と南町奉行を務めた
遠山 景元(とおやま かげもと)。実在はするが、桜吹雪の
入墨があったかどうかは不明。ホントに入墨をしていたら
公職追放、罷免はまぬがれまい。いつも袖がめくれるのを
気にして、袖を引っ張っていたので、「入墨が見えないように
隠していたのでは」と勘ぐられたとかいう説まである。

遠山の金さんが、北町奉行となったのは 天保11年(1840年)。
翌、天保12年(1841年)、老中 水野忠邦の「天保の改革」が
始まる。当初は、町人達に 分不相応の贅沢と奢侈の禁止を
命じ、風俗取締りの町触れを出したりして、老中のご意向に
従っていたが、「寄席や芝居小屋の全面撤廃」などの過度な
政策には 反対し、天保14年に奉行を罷免された。

つまり、町人への極端な「倹約令」には反対した“お奉行様”
として人気が出たようだ。「遠山の金さん」が裁く 幕府の
高官は「老中水野忠邦」と「目付の鳥居耀蔵」だった。

その後、老中 水野忠邦が失脚し、遠山の金さんは、弘化2年
(1845年)南町奉行として返り咲いた。同一人物が南北両方の
町奉行を務めたのは極めて異例のことである。

ところで 天保14年。遠山の金さんが罷免された年、岐阜の
芥見村で虚無僧同士の縄張りをめぐっての闘争事件が起き、
死者まで出る。この事件のお裁きは、天保15年(1844)から
弘化4年(1847)の 4年間に及んだ。

そして、虚無僧本寺の鈴法寺、一月寺にも捜査が及び、
その結果、虚無僧寺は「飲む 打つ 買う」の巣窟になっている
として、虚無僧が弾圧されることになる。

この時の南町奉行は「遠山の金さん」だったのだが、
虚無僧は“非僧非俗”の無頼の徒とは云え、一応
「寺社奉行」の管轄でござった。「金さん」は関与して
いなかった。ザンネン

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