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平成の虚無僧一路の日記

悪役 「鳥居耀蔵」 

2012年01月18日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「遠山の金さん」の仇役「鳥居耀蔵」って?。

老中 水野忠邦の「天保の改革」を 厳しく押し進めた。
「天保」という年は、全国的な凶作による米価・物価高騰、
天保の大飢饉、百姓一揆や打ち壊しが起こっており、天保8年
には「大塩平八郎の乱」。海外では阿片戦争やモリソン号
事件など夷敵の恐怖もあり、幕政は混乱していた。

「天保の改革」の「緊縮・倹約令」は、必要あっての
政策だった。
しかし、歌舞伎や寄席など庶民の娯楽まで禁止したこと、
大奥の粛清、株仲間の解散などの強行策が反感をかい、
かえって経済の混乱を招いた。

また、異国の脅威から、洋学者を嫌悪するようになり、
「蛮社の獄」で 渡辺崋山や高野長英ら洋学者を弾圧した。

取締りは熾烈を極め、“おとり捜査”を常套手段とするなど
権謀術数に長けていたため、“蝮(マムシ)の耀蔵”。
あるいは「甲斐守 耀蔵」の「耀・甲斐」をもじって“妖怪”
とあだ名され、忌み嫌われた。

果ては、水野忠邦が諸大名の反感をかって、立場が危うく
なると、耀蔵は寝返って水野忠邦を失脚させた。ところが、
後年、水野忠邦が幕政に返り付くと、罷免され、讃岐丸亀に
幽閉される。

明治元年(1868)、徳川幕府の瓦解によって幽閉を解かれ、
明治5年(1872)28年ぶりに 東京に戻り、翌 明治6年
78歳で亡くなった。ある意味、幕末の動乱期を避けて
無事に生き延びられた強運の主だ。

外国嫌いの信念は最後まで曲げず、「自分の意見を聞かずに
開国したことが 徳川幕府を滅ぼす結果になった」と、最後まで
主張していたそうな。

鳥居耀蔵の詩 

「交市通商 競イテ 狂ウガ如ク
  誰カ知ラン 故虜ニ深望アルヲ
  後ノ五十年 須ラク見ルヲ得ベケレバ
  神州恐ラクハ 是レ 夷郷ト作ラン」

(現代語訳)
  人も商業も 競いあって狂ったようだ
  誰が知るだろう、幽閉された(耀蔵)の思いを
  五十年後の未来を見ることができるならば
  日本はおそらく 異人の国となっているだろう

鳥居耀蔵は頑固一徹の嫌われ者だったが、たしかに、
明治の日本は 鳥居耀蔵が予見した通りの「西洋文明を
真似た国」となった。先見の明があったか。

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