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タイトル 松の廊下(10景)
投稿者 COSMOS 投稿日 2024/05/02 07:52:24
松の廊下(10景)
説明 江戸幕府は毎年正月、朝廷に年賀のあいさつをしており、朝廷もその返礼として使者を幕府に遣わせていました。
この朝廷とのやり取りを担当していたのが吉良上野介で、その補佐役が浅野内匠頭でした。皇居東御苑の本丸跡には松の廊下跡がありこの浅野内匠頭と吉良上野介の間であった松の廊下跡があります。
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COSMOSさん


元禄14年3月14日巳の下刻(午前11時半過ぎ)吉良上野介が本丸御殿の松の廊下を歩いていたところ、浅野内匠頭が上野介の後ろから「この間の遺恨覚えたるか」と声をかけ小刀で肩先を斬りつけ、更に上野介が振り返ったので小刀は吉良の眉の上を傷つけたといいます。
内匠頭はその場に居合わせた梶川与惣兵衛に取り押さえられます。その後、目付が双方から事情を聴取し、側用人柳沢吉保を経て将軍徳川綱吉に伝えられます。即日内匠頭には切腹の裁定が下り、上野介は特におとがめもなかったといいます。
当時武士社会の慣習からいえば、「喧嘩」が起こった際には「喧嘩両成敗」が適応され浅野と吉良は「双方切腹」となるはずです。
しかし吉良が脇差しに手をかけなかったという証言が梶川から得られ、この事件は喧嘩としては扱われず、浅野内匠頭の一方的な「暴力」とみなされます。
このように吉良にはお咎めなしで、浅野内匠頭には切腹が命じられ、しかも後日、浅野内匠頭の領地である赤穂藩には御取り潰しが命じられています。こうした裁定が、後に起こる赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件の素地となったといいます。

2024/05/02 07:52:41


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