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言の葉庵
名言名句 第七十七回 岡倉天心 「茶道は、生きる術を授ける宗教なのである」。
2024年03月16日
テーマ:テーマ無し
茶道は、生きる術を授ける宗教なのである。 岡倉天心『茶の本』
今回の名言は、そもそも「茶道とはいったい何か」を解き明かそうとするものです。
明治期の世界的名著である『茶の本』で、岡倉天心は「生きる術(すべ)を授ける宗教」である、と看破しました。
まずは、現代語訳角川文庫版から同句を含む第二章 茶の流派の一節をご紹介します。
【訳文】
『茶の本』第二章 茶の流派
茶の理想の頂点はこの日本の茶の湯にこそ見出される。一二八一年のモンゴル襲来を見事に阻んだことによって、日本は、中国本国では異民族支配によって無残に断絶してしまった宋の文化を継承することができたのである。
私たち日本人にとって茶道は単に茶の飲み方の極意というだけのものではない。それは、生きる術を授ける宗教なのである。茶という飲み物が昇華されて、純粋と洗練に対する崇拝の念を具体化する、日に見える形式となったのであり、その機会に応じて主人と客が集い、この世の究極の至福を共に創り出すという神聖な役割を果たすことになる。茶室は、索漠とした日々の暮らしに潤いをもたらすオアシスであり、そこに会した旅人たちは、共に、芸術鑑賞の泉を分かち合って疲れを癒すのである。茶の湯は、茶、花、絵などをモチーフとして織り成される即興劇である。部屋の色調を乱すような色、動作のリズムを損なうような音、調和を壊すような仕草、あたりの統一を破るような言葉といったものは一切なく、すべての動きは単純かつ自然になされる――
茶の湯が目指したのはこのようなものである。そして、この企ては不思議にも成就されたのである。そのすべての背景には微妙に哲学が働いている。茶道は姿を変えた道教なのである。
(『新訳 茶の本 ビギナーズ 日本の思想』 角川ソフィア文庫 2005/1/25岡倉 天心 著,大久保 喬樹 翻訳)
「私たち日本人にとって茶道は単に茶の飲み方の極意というだけのものではない。それは、生きる術を授ける宗教なのである」は、天心の英語原文では下の一節となっています。
Tea with us became more than an idealisation of the form of drinking; it is a religion of the art of life.
角川文庫版の訳文「生きる術を授ける宗教」は、原文の“a religion of the art of life”の部分です。現在日本では一般に「art=芸術」と置き換えられますが、もともとの語源では“nature(自然)”に対する、“art(人工)”という概念であり、技術や技芸を指す言葉でした。よってこの訳文となっているのです。
さてこの「生きる術(すべ)」とは何か。なぜそれが「宗教」となったのでしょうか。
・日常生活のすべてが修行である
禅では「行住坐臥」といい、日常生活のすべての行いが修行だと考えられています。
「行」は歩く、「住」は止まる、「坐」は座る、「臥」は横になること。つまり、朝起きてから、顔を洗い、掃除をし、食事を作り、座禅・読経し、外出して勤めをし、寺へ戻り一日の始末をして夜寝るまで、一挙手一投足が、悟りのトレーニングである、と教えています。
たとえば茶道の秘伝書『南方録』で、茶における行住坐臥を利休は次のように説いています。
宗易、ある時、集雲庵にて茶湯物語ありしに、茶湯は台子を根本とすることなれども、心の至る所は草の小座敷にしくことなしと常ゝの給ふは、いか様の子細か候と申。宗易の云、小座敷の茶の湯は、第一仏法を以て、修行得道する事なり。家居の結構、食事の珍味を楽とするは俗世の事なり。家はもらぬほど、食事は飢ぬほどにてたる事なり。これ仏の教、茶の湯の本意なり。水を運び、薪をとり、湯をわかし、茶をたてて、仏にそなへ人にもほどこし、吾ものむ。花をたて香をたく。みなゝ仏祖の行ひのあとを学ぶなり。なを委しくは、己僧の明めにあるべしとの給ふ。
(『南方録』覚書 岩波文庫 1986/5/16 西山 松之助 校注)
・一期一会。今、ここにすべてがある
茶の湯では、行住坐臥と同様に、もっとも大切とされている言葉があります。それが、
一期一会
死後の往生や来世に救いを求める他の宗教とは異なり、現世で悟りを開き、成仏することを目指す禅では、もっとも大事なのが、まさに今、生きているこの一瞬である、としています。
やり直しのきかない、今の一瞬一秒を何よりも重んじ、日常の些事をおろそかにせず、目の前のことすべてに全力で取り組むべき―。
これが「一期一会」であり、茶禅一味思想の根本です。今、流行の言葉で言い換えれば「君たちはどう生きるか」を具体的に指し示した教えだといえましょう。
ふらふらと何の考えもなく、信念もなく「今さえよければそれでいい」などとうそぶく態度とは真逆のものです。
提る 我得具足の 一太刀
今此時ぞ 天に抛つ
(『千利休 遺偈』 天正十九年)
たかが一椀の茶、己の茶を守るために生を截ち切った利休の気迫こそ、茶道が400年以上もの長きにわたり日本文化として継承されてきた大本なのではないでしょうか。
それを、茶道は単なるティーセレモニーではなく、「生きる術を授ける宗教なのである」と、はじめて日本に接する欧米の人々へ伝えた天心の先見の明には、驚くしかありません。
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