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青野ヶ原モトクロス    雑感 

2023年12月10日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



★青野ヶ原モトクロスのあったのは昭和38年(1963)5月のことである。 このレースが無かったら、ひょっとしたらカワサキの二輪事業もなかったかも知れない。 カワサキが二輪の一貫生産を始めたのは昭和35年(1960)のことなのだが、最初に開発・生産した125B7がとんでもないクルマだったのである。 車体に欠陥があって工場は返却車の山になった。 昭和37年1月度の生産台数は返却車が出荷台数を上回ってマイナス17台の生産となったのである。    こんな状態だったから、当時の川崎航空機の本社は日本能率協会に『この事業続けるべきかどうか』の市場調査を依頼したのだが、 その年にあった青野ヶ原モトクロスの1位から6位までの独占勝利で事業部の意気は上がったこともあって、 日能は『この事業やるべし』との結論を出すのである。 これがその時の記念写真なのだが、ここに写っているメンバーは製造部と営業部ばかりで、技術部は誰もいないのである。        この青野ヶ原のモトクロスは会社の正規のイベントではなくて、 製造部と営業部の有志で行われたプライベートなものだったのである。 私は当時営業部の管理係にいて、このレースには直接には関わっていないのだが、 上司の小野助治次長が『残業料も出ないのでパンでも買う金を都合してやれ』との指示があって、 幾らかの金を都合したぐらいのことなのである。 ただ、当時のメンバーも殆どが亡くなってしまわれて、 『青野ヶ原のモトクロス』を語れる方もいなくなってしまわれたので、 少し長くなるがその背景などを含めて纏めてみたいと思っている。★まずはなぜこんなモトクロスをやることになったのか? それはその時代の二輪業界の背景と『仕掛け人』がいたのである。 青野ヶ原モトクロスのあった前年昭和37年(1962)は、 鈴鹿サーキットが誕生した年でもあり、 同時にMFJがスタートした年でもあった。 この年の11月には日本で初めての本格的なロードレース・MFJ全日本ロードレースが鈴鹿サーキットで開催されたのである。 このレースの250tの優勝者が三橋実、350ccの優勝者が片山義美で、 この時は二人ともヤマハなのだが、 このお二人はその後のカワサキのレースに密接に関係されることになるのである。 このレース観戦を仕掛けた方が、兵庫メグロの西海義治社長で、 元プロのオートレーサーなのだが、「カワサキのレース」をスタートさせようと目論まれたようで、 その第一弾が『鈴鹿のレース観戦』で、製造部の連中を鈴鹿サーキットに連れて行かれたのである。 製造部のメンバーは二輪のロードレースを始めて観て、 いたく感動し『カワサキもレースを』ということになって、 青野ヶ原モトクロス出場になるのだが、 当時のカワサキにはレースのマシンなど造るノウハウはないので、 西海さんは、子飼いの松尾勇さんを製造部に入れてマシン製造に当たらせるのである。 そしてこの青野ヶ原モトクロスが兵庫県のMFJの第1回モトクロスなのだが、 このレースを開催された主宰者が当時のMFJの兵庫県支部長であった西海義治さんなのである。       ★このように見てくると、青野ヶ原モトクロスはまさに西海義治さんが綿密に仕組んだものなのだが、『1位から6位までの独占』と言うのはこれはまさに天祐で、カワサキのマシンもライダーも速かった訳でもなく、『神様が雨を降らせて』カワサキを勝たせてくださったのである。 この日のレースは雨でいたるところに水溜りが出来て、 他メーカーのマシンはみんな水につかってエンジンが止まってしまったのだが、 カワサキの実用車に近い125B8のマシンのみが、 止まらずに走り切った結果なのだと思う。 私もその後レースに関係することになるのだが、「1位から6位独占」という成績ははこのレースだけなのである。 ライダーも別にモトクロス専門でもない製造部の若手たちなので、 特に速かった訳でもないのだが、車が止まらずに最後まで走り切った結果なのだろう。 後、カワサキの契約ライダーになりMFJの殿堂入りを果たす山本隆もこのレースにはヤマハで出場しているのだが、 やはりマシンが止まってリタイヤしているのである。このレースの中心になった人たちは、製造部の中村治道・高橋鐵郎・川崎芳夫さんなどなのだが、営業からは私の下にいた川合寿一さんがこのチームのマネージャーとして参画していたのである。川合さんは明石工場の野球部のマネージャーなどもしていたことから、このレースチームでもマネージャーを務めたのである。  この青野が原のレースでは『1位から6位独占』とは言われるのだが、レースで常に言われる『優勝者』が誰なのかがよく解っていないのは、不思議なことである。当日現場監督をされた高橋鐵郎さんは海軍兵学校出身なので『カワサキが勝つこと』が最優先で 個人的な優勝者などは関心がおありでなかったのかも知れない。★こんなカワサキの初めてのレース・青野ヶ原モトクロスの成果も大いに関係して、『カワサキの二輪事業』は苦難の時代を乗り越えて再出発することになるのだが、このとき日本能率協会が下した結論の条件の中に、『広告宣伝課を創るべし』と言うのがあって、 その広告宣伝課を私が担当することになるのである。 その広告予算は当時の金で1億2000万円を3年間本社開発費で出されることになったので、 現在の金に直したら優に10億円を超える額で大変な額だったし、 レースも正規にチームを創ることになったので、その費用も広告宣伝費の中で扱うことになり、レースとの関係が出来たのである。 レースチームは川合寿一さんが担当して、 関西では、神戸木の実クラブの歳森康師・山本隆の二人と契約するのだが、 この神戸木の実の主宰者が鈴鹿の優勝者の一人片山義美さんだったのである。  関東では当時のカワサキ自動車販売が、125B7の時代からレースを始めていたのだが、このレースを担当していたのがカワサキ自販の広告宣伝課長の小野田滋郎さんで、 ヤマハにいた三橋実を引っこ抜いて、カワサキコンバットというチームを厚木で立ち上げたのである。 そんなことから鈴鹿サーキットでの初めてのレース優勝者のお二人がカワサキのレース立ち上げに関係するという不思議なご縁だったのである。★そんなことからカワサキのレースチームも、新しくできた広告宣伝課の中での運営となるのだが、 当時の川崎航空機の明石工場の技術屋さんは、エンジンの専門家は沢山いたのだが、 特に二輪車が詳しかった訳でもなくエンジンを除いたら『素人集団』と言っていい状況だったのである。 そんなことから、エンジンは技術部が担当したのだが、 レーサーに仕上げるために製造部に『レース職場』を造って、 ここでは兵庫メグロから来た松尾勇さん個人のノウハウでマシンに仕上げ、 ライダー契約とレース運営は広告宣伝課と言う3者協力体制で、レース運営がなされたのである。 最初にスタートした時は、 カワサキコンバットの三橋実・岡部能夫・梅津次郎 神戸木の実クラブの歳森康師・山本隆の5人のライダーでのスタートだったのだが、 その後、安良岡健や新人の星野一義も加わって、 ロードレースでは、三橋実・安良岡健のほか金谷秀夫や和田正宏とも契約し、 創成期ながらなかなかの陣容となったのである。    このような体制は、レースを正規にスタートさせた昭和39年(1964)から結構長く続いて、松尾勇さんが『レース職場』で最後に仕上げたマシンは 「F21M」でこれは日本のモトクロス界を席巻した結構なマシンだったが、      このマシンまでは『赤タンク』で、『赤タンクのカワサキ』と称されていたのである。★ 現在のように技術部がレース部門を統轄するようになったのは昭和48年(1973)からで、 モトクロッサーでいえば『KX』と称されるマシンからで、 マシンのカラーもライムグリーンに統一され、 『チームグリーン』の活躍なども見られるようになるのである。 ごく最近、この『KX50周年を祝う有志の会』が開催され、私も出席したのだが、 かって星野一義の良きライバルだったスズキの吉村太一ちゃんも来てくれていた。           今年は『青野ヶ原モトクロス』からは60周年に当たるのである。 私の現役時代だが、 1988年に『カワサキファクトリーチーム結成25周年記念』の会合を開催している。    これがその時の写真なのだが、 当時のレース運営委員会のメンバーやライダーたちも揃っているのだが、 この最前列の真ん中にお座りの方が西海義治さんで、 左から2番目がメカニックの松尾勇さんなのである。 ここには青野ヶ原の中村治道さんも、高橋鐵郎さんもおられるし、 初代のレース監督大槻幸雄さんもおられる。 ライダー諸君も安良岡・和田・山本・岡部・梅津・金谷・星野・清原と顔を揃えていてOBライダーでは星野と清原が一番の若手だったのである。 当時の現役ライダーなども出席していて、多田・杉本・宗和などの顔も見えるのである。 この会合は芦屋の有名旅館『竹園』で全額費用持ちで1泊泊まりで行った豪勢な25周年記念で、 この写真を撮ってくれたのは二輪車新聞の記者衛藤誠さんなのである。 この会合自体が35年も前の話なのである。 元川重社長の田崎雅元さんも、チームグリーンの平井稔男さんもいるし、 私の後のファクトリーを纏めてくれた岩崎茂樹さんの顔も見える。 創成期のカワサキのレースを支えたメンバーなのである。 私自身はレースに関わったお陰で今もなお豊かな人生が送れたと レースに感謝する昨今なのである。

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