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平成の虚無僧一路の日記

「郡長正切腹」の真相 つづき 

2011年10月28日 外部ブログ記事
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「郡(こおり)長正」の留学先は「小倉藩・小笠原家」だが、
小倉藩は、幕末、慶応2年の「第二次長州征伐」の際、
幕府側の先鋒であったため、長州に攻められ、豊津に
藩庁を移し、明治2年には「豊津藩」となっていた。

藩主は「小笠原」氏。会津藩同様、徳川家康を祖とする
徳川親藩である。小笠原家としては、戊辰戦争に敗れた
会津に同情して、前途有為の少年たちを引き取って勉学
させようとの好意であった。

それに、旧会津藩士の子弟7名が選ばれ、遠く九州の地
まで行ったのである。

その一人「郡長正」は、会津藩家老 萱野権兵衛長修の次男。
萱野権兵衛は、戊辰戦争の責任を一身に負って、明治2年、
5月切腹させられた。萱野家は断絶となり、姓を「郡」と
改めていた。

『会津少年 郡長正自刃の真相』の著者 宇都宮泰長氏は、
「会津の少年達」の教育係りだった「中川三郎」の子孫で、
曽祖父から 語りつがれていた話を明らかにしてくれたのだ。

その「伝えられていた話」とは「郡長正は“小笠原の
殿様に申し訳ないことをした”と言って切腹した」との
こと。

会津から来た少年7人の間で、喧嘩があった。そこで、
小笠原藩の中川三郎が喧嘩の仲裁に入ると、長正が
「小笠原藩は、長州に攻められた時、城を焼いて
逃げたではないか」と、小笠原家を侮辱するような
ことを口走ったようだ。

それに対して、中川三郎は、「小笠原家は会津藩が降服
したあと、750名もの会津藩士を東京まで護送する任に
あたった。親藩のよしみで、罪人としては扱わず、温情を
もって世話したが、途中脱走する者が相次ぎ、大変な
迷惑を蒙った。君たちは、どこまで 当家に迷惑をかける
のか」というような話を聞かせ、長正を諭したようだ。

郡長正は、そのことを聞いて驚き、小笠原家の厚情に
感謝し、誹謗したことを悔いて「小笠原の殿様に申し訳
ないことをした」と腹を切った。というのが真相のようだ。

宇都宮氏は『郡長正自刃の真相』の書の巻末に、東京まで
護送された会津藩士 750名の名簿を載せている。

白虎隊士として蘇生した「飯沼貞吉」と父「時衛」の名も
ある。私の母方の祖「山室鉄四郎」の名もあるが、「牧原
寅彦」の名は無い。「牧原」は、別ルートで東京に護送
されたようだ。

事実は小説よりも面白い。驚くべき真相だが、なぜか、
会津では、問題にされていない。一度定説となったものを
変えたくないのか。

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