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平成の虚無僧一路の日記

郡長正自刃の真相 その1 

2011年10月27日 外部ブログ記事
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宇都宮泰長編著『会津少年郡長正自刃の真相』(H15年、
鵬和出版 限定500部)を入手した。

「郡(こおり)長正」は会津藩家老萱野権兵衛長修の次男。
萱野権兵衛は、戊辰戦争の責任を一身に負って、明治2年、
5月切腹させられた。萱野家は断絶となり、姓を「郡」と
改めた。その萱野権兵衛の次男「郡長正」は、6人の会津藩
子弟とともに、翌明治3年、小倉藩に預けられた。

小倉藩は、幕末の長州との戦いで城を焼かれ、内陸の
「豊津」に藩庁を移し、「豊津藩」となっていた。
藩主は「小笠原」氏、徳川親藩である。藩校は「育徳館」。
その後「豊津中学・高校」となり、現在は、中高一貫教育の
「育徳館中学・高校」である。小笠原家としては、戊辰戦争に
敗れた会津に同情して、前途有為の少年たちを引き取って
勉学させようとの好意であった。

ところが、翌、明治4年5月、郡長正が「武士道の意地」
から切腹して果てるという事件が起きた。

「切腹」の理由については、狭間祐行の『会津戦争』(S16年
刊)や、笹本寅の『会津士魂』によって、「母親宛の手紙に
『食事がまずい』と、食べ物の不満を書き綴ったことが、
小倉藩の子弟に見つかり、『武士が食べ物の不平を言うとは』
『会津の死に損ない』と嘲笑されたため」というのが、
今まで、信じられてきた定説だ。

「郡長正」のことは、会津人なら誰でも知っている話であり、
私も、子供の頃から母親に聞かされ、「食べ物の不平不満は
決して言ってはならない」と教えられてきた。そして上記
二冊の本は、小学校の時に何度も読んで、暗記するほど
だった。

その本には、豊津高校では、「郡長正」のことを顕彰し、
碑もあると書いてあったので、昨年訪ねてみたが、
それは戦前のことだった。現代の学生に聞いても
「郡長正なんて知らない」という。碑も無かった。
会津から移植された磐梯山の石と木があったぐらい。
私は多いに失望したものだった。

たしかに「いじめにあって自殺」したなんて、現代の
子供たちには、教育上も よろしくない話だ。

そして「食べ物のことで不平不満を言った」のが
原因というのも、何か変。粗食の会津人としては
あり得ないことだと、私も不審に思っていた。

そして、そのことを否定する説が「宇都宮氏」に
よって、明らかにされたのだ。

解明の鍵は、当時 まだ郵便制度が整っておらず、
会津と豊津を結ぶ手紙の往還は難しかった。つまり、
母との「往復手紙」など存在しなかったのだ。

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