メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

遊民画廊

玉縄城址とその関連史跡の歴史散策(2023/1/26) 

2023年01月28日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 16世紀初頭、北条早雲により関東攻略の拠点・小田原城の支城として築かれた山城である”玉縄城址”に出かけた。今は、女学院の敷地になっているので本丸跡などには近づけないが、近隣にはこの城に関係する神社仏閣が残っているので歩き周ることにした。JR大船駅から右手に大船観音を見ながら柏尾川沿いに歩き始めた。<<玉縄首塚>> 柏尾川傍の道路脇に玉縄首塚。16世紀初頭、安房の国の里見軍が海を越えて攻め寄せてきた。この辺りで玉縄城の北条勢と合戦。両軍の戦死者の霊を弔うための塚。<<貞宗(ていそう)寺>> 玉縄首塚から西へ1.5qほど歩いて貞宗寺。この寺は、玉縄城との関係はなく、参道の左奥に御霊屋。徳川二代将軍秀忠の祖母貞宗尼が晩年過ごした場所に建てられた寺で、そのお墓が御霊屋。内部に宝篋印塔が安置。<<円光寺>> 貞宗寺から歩いて5分の所に円光寺。元々は玉縄城内にあった北条氏の祈願所で、廃城後この地に移されたとのこと。<<二伝寺>> 円光寺から距離的には500m程であるが、狭い急な階段を登った丘の上にある寺。この地は玉縄城とは尾根続きで地域で一番高い位置にあるので、玉縄城の西の守となる砦として造られたとのこと。尚この寺は今回訪問した内で唯一藤沢市にある寺。<<久成(くじょう)寺>> 二伝寺から再び狭い急階段を下りてバス通りに出た先に久成寺。この寺は北条氏の家臣が宅地を寄進したもので、徳川家康が小田原出陣時や江戸時代に鷹狩途中に立ち寄った寺。そのため、本堂の屋根には三葉葵の紋所が見られた。<<玉縄城址:大手門址と七曲り>> 久成寺横の急坂を登ると、バス停”陣屋坂上”と城址を思わせ名称。住宅街を進むと、左手に工事用の柵のある場所に”玉縄城大手門跡”の掲示。この先の坂上に諏訪壇等の城址遺跡が見られそうだが、女学院の敷地で立ち入ることは不可で残念。この辺りは、住宅街として宅地が立ち並んでいた。さらに進むと狭い下り階段。歩きやすいように整備された”七曲り”坂。途中には防御のための武者だまり跡等が見られた。<<諏訪神社>> 七曲り坂を降りて少し歩くと右手に「小坂家長屋門」。立木などに遮られ建物の全貌を撮れなかった。すぐ前が県道402号線。この道路は、12世紀に源頼朝が鎌倉から府中方面へ抜ける街道として整備した「陣街道」・「西の道」と呼ばれたとのこと。横断歩道を渡ると、その奥に諏訪神社。北条早雲が玉縄築城の際に、城内(諏訪壇)に城の守り神として勧請した神社だが、江戸時代にこの場所に移されたとのこと。陣街道を挟んで対面の丘が玉縄城址。<<龍寶寺>> 県道を大船方向に下ると左手に茅葺屋根のお寺。併設する幼稚園児の賑やかな声が聞こえるが、この龍寶寺は玉縄城主の菩提寺。長い参道を進むと大きな本堂。本堂の左側には、玉縄城主三代の供養塔。元々は本堂裏山山頂で村人から「ぶっけり仏」と呼ばれていたものを最近この場所に移されたとのことで、新しい供養塔。この場所は、鎌倉時代公暁に暗殺された源実朝の首が隠された寺と伝えられているとのこと。<<玉縄歴史館・旧石井家住宅>> この後、龍寶寺参道脇の「旧石井家住宅」(国重文)と「玉縄歴史館」を見学。旧石井家住宅は300年前に造られた名主を務めた豪農の家。歴史館には、玉縄城の立体模型などが展示されていた。<<玉泉寺>> 再び県道を少し下り龍寶寺トンネルを抜け左折した先が玉泉寺で、玉縄城家老に関係するお寺とのこと。本堂左脇には、六地蔵に並んで願いを全て叶えてくれるという「よくばり地蔵」が祀らていた。 この後、大船観音寺の傍の谷筋を抜けて大船駅に戻り、この日の散策は終了。狭い範囲に玉縄城に関係する史跡がこんなにも残っていることに感心した散策だった。最後に、歩いた行程を、玉縄歴史館で頂いた地図で示す。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ