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たかが一人、されど一人

兄の事など2 

2011年10月05日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

昨日の日記で昔の話、家族について書いた。早速甥から礼の電話やメールが来たので、調子づいてもう少し書く。昨日書いたように私は4学年上の次兄と仲良く、いろんなことを教えてもらったし、兄の友達付き合いの仲間に入れてもらったことが何度もある。昭和20年代末近く、兄は高校で写真研究会と言うクラブに入った。多分当時はどこの家にも厚紙で作られた「アルバム」が1冊や2冊は有り、中には手札判の祖父や祖母の写真、キャビネ判の両親の結婚記念写真や学校で撮影された記念写真が丁寧に張られていたものである。長野市には写真館は何軒かあったが、今言うところのカメラ店は2軒だけだったと思う。カメラを買う余力のある家庭は少ないし、戦前から写真機を持っている家庭も少なかった。カメラ店ではフィルムなどの写真材料を売ったり、現像や紙焼きなどを引き受けていたが、商売の額は如何程もなかったのでは?ビックカメラやヨドバシカメラを思うと隔世の感がある。我が家にもカメラは無かったが、祖母の家に古いドイツ製のベスト判カメラが1台(絞りはマックスでF6.3だったかな、シャッタースピードは1秒から100分の1秒迄あったような気がする)あった。兄はこれを貰ってきて写真研究に及ぶ決心をしたわけだ。私は今でもそうだが、探究心薄く面倒なことは嫌いなのでどうでもよかったのだが、兄は熱心だった。先ずそのベスト判カメラのフィルム装填枠を改良して、半分のサイズにして8枚撮りが標準だったとしたら16枚撮りにしてくれた。更に母に頼んで押入れの下段を一つ空けてもらい、二股ソケットからコードを引っ張って赤い豆電球が灯る臨時の暗室を仕立てた。ここに二人蹲り、フィルムの現像や印画をするのだが、きっと助手が必要だったのだろう。私も角面器の現像液を竹箸でかき回したりするのを手伝わされたような気がする。Y2フィルターをレンズに装着できるようにしてくれたのも兄である。二人して引き伸ばし機が欲しいなと語り合った時もあったが、さすがにそんなものは買ってもらえなかった。今でも私の古いアルバムには、中学2年か3年の遠足で撮った10数枚の小さな写真(3cm×4cm)が張り付けてある。中学生でカメラを持っていた事がいかに誇らしかったか、想像してくれと言っても無理だろう。私は兄の友達も大勢よく知っていた。誰が喧嘩が強いとか、誰と誰が仲が良くて誰が兄と険悪であるかさえ。険悪であった兄の同級生は、兄が向かいの家のお嬢さんと仲がいいをで僻んでいることまで子供心で分かっていた。また逆に兄が仲良くしていた応援団長さんの依頼で、私の友人と友人のお姉さん(兄たちの1学年下の女学生)5人でピクニックに行く計画を練ったことがある。応援団長と言えば校内きって強面の実力者だ。ところが残念なことに、この計画は我が友人を通してお断りを頂く結果になってしまった。結局我が友人も申し訳ないと言って参加せず、3人で秋の山にハイキングに行った。その時の応援団長さんの落胆ぶりが忘れられない。「せめて弟だけでも来ればいいのに。」と言いながら、山歩きの最中も、私に対しては凄く優しくしてくれたのも懐かしい思い出だ。兎に角高校生になったら、メッチェンについて自分にもいろいろあるだろうとの予感だけは、中学生時代に感じ始めていた。

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