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「平成」の天皇という<ただならぬ人物> 

2021年12月28日 外部ブログ記事
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友人の歴史研究者Kさんから届いた論考を転載します。上皇明仁の誕生日までに届く予定でしたが若干遅れました。

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「平成」の天皇という<ただならぬ人物>
原武史の『平成の終焉』(岩波新書、2019年)は、2019年4月に退位した「平成」の天皇(以下、明仁と呼ぶ)の歴史的な意味に関する本格的な分析である。本書によれば、その退位の契機となった2016年の「おことば」と妻の美智子と共に皇太子時代から天皇時代まで継続した行幸啓の二つが重要だという。
まず「おことば」である。「国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を日々模索しつつ過ごして来ました」という一節で、明仁は、天皇の仕事が「国事行為」だけではないこと、それどころか、象徴としての務めの核心は「国事行為」ではないこと言明した。そして、象徴としての務めとは、「国民の安寧と幸せを祈ること」と「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」であると積極的に述べた。この二つは宮中祭祀と行幸であり、共に憲法には規定がない。さらに、この二つが述べられているパラグラフ全体の文意は、宮中祭祀よりも行幸に重点があり、宮中祭祀と行幸が一体であることを示している。原はこの「おことば」が昭和天皇の「終戦の詔勅」に匹敵する重要な文章であり、「臣民ト共二在リ」と「国民と共にあり」の箇所は、「臣民」が「国民」に変わっただけだと指摘している。
次に、明仁と美智子の行幸啓である。二人は「ひざまずき、同じ目線で国民一人ひとりに話しかける」という画期的なスタイルで行幸啓を実施した。そして、平成の30年間と皇太子(妃)時代の30年間、合計60年間、全都道府県を三度も巡った。本書には巻末資料として「1.皇太子夫妻の主な国内行啓一覧」「2.皇太子夫妻の昭和期の行啓」「3.お立ち台一覧(1961-77)」「4.主な懇談会一覧(1962-77)」「5.天皇・皇后の平成期の行幸啓」「6.巻末地図 昭和期の行啓と平成期の行幸啓」が付され、二人の尋常ではない行動が図表化されている。そして、原はこの二人の尋常ではない行動が「ミクロ化した「国体」の姿」を人々に示し、それを内面化させたと分析している。敗戦後、「天皇」制が首の皮一枚で生き残ることができたのは、占領支配に利用しようと意図した連合軍のおかげである。しかし、その政治的利用と占領目的(日本社会の民主化と非軍事化)との整合性を図るためには、「天皇」制の根本的な改造(脱神格化と非政治化)が必須だった。そして、その改造の結果が日本国憲法の「象徴天皇」制だったのである。憲法制定の出発点であるマッカーサー三原則では「Head」(元首)、最終点であるGHQ草案では「Symbol」(象徴)と呼称されたが、連合軍にとって「天皇」が脱神格化された非政治的存在となり、国民主権の原則が確立さえすれば、それ以上のことはどうでもよかったのである。また、当時の日本の国会での審議も専ら主権の所在に集中し、「Symbol」(象徴)のあり方は不問に付されたままだった。そして、その後も「象徴」に関する国民的議論は一切なく、その中身は空白のまま放置されて今日に至ったのである。明仁がその生涯をかけて行ってきたこととは、その空白の「象徴」に意味と価値を与えることだったといえるかもしれない。彼の父親(昭和天皇)はその人生の後半を「象徴」として過ごしたとはいえ、残された側近の記録からその言動をうかがうかぎり、自己意識と矜持は最後まで「帝王」だったと思われる。「帝王」として即位し、「帝王」として統治した彼は、「帝王」としてその生涯を全うしたにちがいない。しかし、「平成」の天皇は異なる。彼は最初から中身のない「象徴」だった。その彼が、一人の人間として、自分の存在の意味と価値を「日々模索しつつ過ごして来」た果てに、「国民の安寧と幸せを祈ること」、「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」という結論にたどり着いたと推測すれば、その心情も理解できなくもない。しかし、彼自身「おことば」で、それが「個人」としての考えであると断っているとはいえ、「象徴」という憲法上の規定に関する事項である。政治的権能がない「天皇」の発言としてはやはり問題であろう。その上、彼が最終的にたどり着いた、あるべき「象徴の務め」が<宮中祭祀と行幸啓>であったということは、さらなる重要な問題をはらんでいるように思える。葦津珍彦は、その著『天皇』(神社新報ブックス、平成元年)で興味深いことを述べている。彼によれば、天皇の第一の任務は「神の祭り主」であり、天皇の「統治権と、祭り主たる条件とは、本来相表裏する」。換言すれば、統治が祭りの目的であり、祭りの精神が統治の基底なのである。両者は別物ではない。その証拠に、「治ス(シラス)」という言葉は、「治ス」であると同時に「知ル」の敬語であり、天皇の「統治」とは、天下の祭り主として国情や民意を知ることだという。そして、天皇の「祭り」とは、国情や民意を知り、「国平らかに、民安かれ」という祈りであるというのだ。もし、この葦津の解釈が正しいとするならば、明仁と美智子が異常な情熱を傾けて取り組んだ行幸啓、すなわち、「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」こそ、奇しくも「治ス(知ス)」という「天皇」本来の統治行為そのものということになる。つまり、彼が最終的にたどり着いた、あるべき「象徴の務め」(民の声を聞き、民のために祈る)とは、葦津が説く「天皇の第一の任務」、すなわち「神の祭り主」になるのだ。歴史的に見れば、「天皇」の根源は、大王(おおきみ)と呼ばれた祭司王であり、イネの神をまつる国の最高司祭であった。その意味で、明仁は、「象徴の務め」を求める長い旅路の果てに、祭司王という「天皇」の原像に立ち返ったともいえるかもしれない。また、吉本隆明も、その論文「天皇および天皇制について」(『国家の思想 戦後日本思想体系5』筑摩書房、1969年所収)で、「天皇」制の本質が「宗教的権威の世襲」であり、それが可能であったのは、「天皇」制が「政治的な直接支配からつねに一定の遠近法をたもって存在したこと」と「宗教的な儀式自体のなかで、共同体の宗教的な観念の総和をわがものとしてたもちつづけたという点」だと述べている。しかし、その「宗教的権威」の根拠を『古事記』・『日本書紀』の神話に直接位置付けたのは間違いだったという。そして、その根拠を真に解明するためには、その歴史的な形成過程を分析することが必要だという。日本列島の歴史時代は数千年遡ることが可能であるのに対して、「天皇」制の歴史はわずか千数年にすぎない。日本列島における国家の発生と「天皇」制の歴史とのあいだにある数千年の空白の時代を掘り起こすことのなかにこそ、「天皇」制の「宗教的支配」の歴史を相対化するカギがあるというのだ。そして、そのために必要な前提条件として、第一に宮中祭祀の徹底的な公開、第二に天皇陵と称されるものの徹底的な発掘と調査、そして、最後に南島(沖縄、琉球)における歴史学的・民俗学的・考古学的な研究と調査を挙げている。吉本と葦津とは、前者が天皇制否定、後者が天皇制擁護であり、その立場は真逆である。しかし、両者の主張は、同一の事柄をそれぞれ別の側面から述べたものであり、あたかもコインの裏と表のように思える。そして、吉本が提示する前提条件は、現在、「天皇」制を実証的に考察するうえで、最も正当な要求であり、最も緊急に取り組むべき課題である。この前提条件がクリアされないかぎり、「天皇」制はいつまでも普遍的な<歴史の問題>とはならず、葦津の「神の祭り主」説も単なる特殊な<教義の問題>として終始するしかない。
宮中祭祀は、敗戦後、占領軍の「神道指令」によって国家神道が解体された際も、皇室の信仰として黙認された。昭和40年代、それが政教分離に違反すると問題になった際も、当時の政府により天皇の私的行為として規定され、以来、不問のまま今日に至っている。また、行幸啓も、憲法の明文規定がなく、公的行為(外国訪問、地方訪問等)、または公的な性格を持つ私的行為(福祉施設訪問、企業視察等)というあいまいな名称のままで今日に至っている。しかし、宮中祭祀とは明らかな宗教行為であり、行幸啓も明らかに政治的行為である。「平成」の天皇(明仁)とは、日本国憲法と共存しながら(換言すれば、国民主権と両立しながら)「天皇」が宗教的存在であり、政治的存在であることを、史上初めて言葉と行動で示した<ただならぬ人物>といえよう。
敗戦は「天皇」制の最大の危機であった。しかし、結果的にその本質は不問に付されたまま存続した。歴史を振り返れば、古代から現代の保守政権に至るまであらゆる<政治権力>が「天皇」制を利用して日本という国を支配してきたことは明白な事実である。日本の<大多数>が「天皇」制の本質を不問に付し、思考停止を続けるかぎり、今後もこの支配形式は様々な形態をとりながら存続してゆくにちがいない。
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(了)  

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