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笠原十九司著「海軍の日中戦争」 >零戦は日中戦争の申し子だった< 

2021年12月08日 外部ブログ記事
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?【海軍軍令部総長永野修身(おさみ)の発言】靖国神社後援ドキュメント映画「わたしたちは忘れない」から『米国の主張に屈すれば亡国は必至とのことだが、戦うもまた亡国であるかも知れぬ。だが、戦わずしての亡国は魂を喪失する民族永遠の亡国であり、最後の一兵まで戦うことによってのみ死中に活を見出し得るであろう。戦ってよし勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残ればわれらの子孫は再起、三起するであろう。』 
海軍軍令部総長永野修身は、?鴨プリズンで1947年1月5日獄中死した。(1978年、靖国神社はA級戦犯の死刑及び獄中死の14名を合祀した。)
笠原十九司氏は著作「海軍の日中戦争」で<零戦は日中戦争の申し子だった>と喝破しました。

【書籍帯から】軍令部の参謀たちは、東京裁判において、証人予定者を事前に呼び出して偽証の口裏合わせをおこない、陸軍の東条英機についで開戦責任があった嶋田繁太郎の死刑判決を免れさせることに成功したのである。さらに東京裁判に合わせて、「海軍は陸軍に引きずられて太平洋戦争に突入した」のであり、海軍は本来「平和的?開明的?国際的」であったという「海軍善玉論イメージ」を海軍関係者から意図的に流布して宣伝した。また、天皇の信任厚い米内光政元海軍大臣が連合国軍最高司令官のマッカーサーと会い、天皇の免責と海軍の免責の打診をおこない、マッカーサーも占領政策を容易にするために、陸軍の東条らに全責任を負わせることで「談合」が成立した。まさに「知能犯」であった海軍のなせる業であった。 (「はじめに」より)
遊就館一階ロビーに展示してある「零式五二型艦上戦闘機」

新宿平和委員会檜山紀雄さんと管理人(左)

笠原十九司氏は著作「海軍の日中戦争」より
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「零戦」の登場――大きく傾いた開戦への歯車
中国軍戦闘機の撃墜、爆破と戦果をあげたいっぽうで、日本海軍機の空戦被弾機数、撃墜された自爆機数、そして戦死行方不明負傷者など被害も相当大きかったことがわかる。それは、同作戦は戦闘機隊をつけずに、中攻機隊のみで強行したからである。他の地域の空爆作戦に同行させた九六式艦戦の戦闘機隊では、航続飛行距離が長すぎて、奥地の重慶まで出撃できなかった。日を追って増える被害に苦慮した、現地航空部隊司令官山口多聞少将や第二連合航空隊司令官大西瀧治郎少将らは、開発テスト中であった、「敵地深く進入できるだけの長い航続力」をもった「十二試艦上戦闘機」の派遣を矢のように督促した。同機第一陣の六機は一九四〇年七月一五日に漢口に送られ、開発テストと改修の仕上げをおこない、制式採用予定日の七月二四日にその年が皇紀二六〇〇年であったので、「零式艦上戦闘機ーー型」(略称「零戦」)と名づけられた。 後陣も漢口に到着して一五機となった零戦は、八月一九日に、はじめて実戦に参加、翌二〇日も重慶爆撃に出撃した。中国空軍は新鋭戦闘機の出現に回避行動をとったので空中戦はおこなわれなかったが、単座戦闘機で往復一八五〇キロ(一〇〇〇浬)を飛行できる零戦の長大な航続距離が立証された。百一号作戦が終了したのは九月五日であったが、八月下旬以降、中国空軍機による邀撃がなかったので、海軍機、陸軍機とも被害はゼロとなった。? 零戦が中国空軍機と最初の空中戦を展開したのは、九月一三日であった。横須賀航空隊でテスト飛行を繰り返してきた横山保大尉を零戦隊長とした一三機の零戦は、中攻機隊を掩護して出撃、重慶爆撃をしたあと帰路についたが、密かに残した九八式陸上偵察機から、回避飛行をしていた中国空軍戦闘機が重慶上空に戻ってきたという無線を受けて、ただちに重慶に舞い戻り、零戦最初の空中戦を展開した。中国空軍はソ連製のTー15戦闘機約二〇機とTー16戦闘機一〇機で、空中戦は約田中将や大西少将らが、零戦を量産し、対米航空決戦に投入することによって、「緒戦の勝利」の可能性に賭ける気持ちに傾いたことは容易に想像できる。前述のように航空部隊による真珠湾攻撃作戦を考案した源田實は『真珠湾作戦回顧録』のなかでこう記している。?  日本海軍の戦闘機隊は、パィロットの術力において勝っているのみに非ず、敵の戦闘機に対する空戦性能においても、わが方の機材がはるかに勝っていると思っていた。筆者のこの判断は、大陸の航空戦における空中戦闘で、その正当性が立証されたのである。特に真珠湾攻撃に当たっては、前年から大陸の空で、その無敵振りを遺憾なく発揮した零式艦上戦闘機の最新型を搭載していたのであるから、自信をもたない方がおかしいのである。? 源田實中佐が、緒戦の日米航空決戦に勝利できる自信をもって、真珠湾攻撃作戦を作成し、大西瀧治郎少佐をとおして山本五十六連合艦隊司令長官へ提出したのは、零戦の完成と中国の奥地攻撃における実戦演習による威力の証明があったからである。源田が設計主任の堀越二郎に戦闘機の装備に防禦よりも強い攻撃力を要求し、その結果、零戦には重装備となる二〇粍の機銃が設置されたことは述べたとおりである。本書で述べてきたとおり、南京渡洋爆撃と南京空爆の作戦の教訓から、十二試艦上戦闘機には、長距離爆撃機の中攻隊を掩護できる機能をもった戦闘機としての設計が強く要求された。その結果完成した零戦が、それまでの戦闘機では不可能であった奥地重慶への長距離爆撃に出撃し、向かうところ敵なしという期待どおりの戦果をあげたのである。その意味で、零戦はまさに日本海軍にとって「日中戦争の申し子」だったのである。同時に、長距離爆撃機中攻と?長距離戦闘機零戦の二つがそろったことにより、航空主兵論者であった山本五十六連合艦隊司令長官の真珠湾攻撃構想が現実化していったことは、後述するとおりである。 零戦の登場によって、日中戦争からアジア太平洋戦争へと歴史の歯車が大きくまわりはじめるが、その歴史の流れを、堀越二郎『零戦――その誕生と栄光の記録』から、以下に抄録で追ってみたい。はじめての戦果 昭和十五年九月十三日の夕方のことであった。つね日ごろ物に動じない服部部長が、いつになくうれしそうな顔をして、開口一香、「堀越君、大ニュースだよ。」というような意味のことを言ったのを憶えている。? そして、きょう、中国大陸で零戦が敵機二十七機を撃墜するという大戦果をあげ、そのため、海軍航空本部では、その零戦を設計製作した三菱重工、エンジンを設計製作した中島飛行機、そして二十ミリ機銃を製造した大日本兵器の三社に対して、異例の表彰を決定したと教えてくれた。あまりにも突然のニュースではあったが、それだけに、私の「ついにやったか。」という感じも強烈であった。表彰式で読みあげられた感謝状は、つぎのようなものであった。? ? ? ? ? ? 感謝状? 昭和十五年九月十三日零式艦上戦闘機隊が重慶上空に於いて、敵戦闘機二十七機を捕捉之を殲滅し得たるは、零式艦上戦闘機の卓越せる威力に俟つべきもの多く、之が急速完成に貴社の払われたる絶大なる苦心努力に対し、茲に深甚の謝意を表す。? 昭和十五年九月十四日海軍航空本部長海軍中将豊田貞次郎? 三菱重工業株式会社取締役会長斯波孝四郎殿? この感謝状が読みあげられるのを聞きながら、私は中国の空に雄飛する零戦の姿をまぶたに描いた。ついに敵機を発見? (重慶爆撃に向かった零戦機隊に中国空軍戦闘機が邀撃をしなかったことを記し)察するところ、中国空軍はすでに日本の新鋭戦闘機が戦列に加わったことをかぎつけて、巧みに避退している気配が濃かった。しかし、迎え撃つ敵機がいなくなったということは、陸攻隊が思うままに軍事施設を選んで、正確な爆撃ができるという効果はあった。また、この零戦の重慶進攻は、世界の軍航空界に例のない単座戦闘機による往復一千八百キロの編隊長距離戦闘飛行という点でも、特筆に値することであった。零戦は、はやくも他に類を見ない持ちまえの航続力の片鱗を見せたのである。? 航空本部の指示によって、九月下旬、中島の小泉製作所の幹部や担当の技術者などの一団が名古屋の工場を訪れた。私たちは、いっさいの資料を提供し、中島の人びととくわしい打ち合わせをした。中島で生産した零戦が流れ出したのは、翌十六年の九月であった。? こうして、昭和十五年は暮れた。この年の末までに海軍におさめられた零戦は、試作機から数えて全部で約百二十機に達した。全海軍の寵児に? 大陸における実戦の戦果と、陸軍戦闘機との性能コンテストの成績は、いかに頑固な海軍の パィロットにも、すなおに受け入れられた。一年まえ横須賀航空隊に移されたとき、九六艦戦よりも鈍重だといって好かれなかったこの戦闘機も、いまや全海軍の寵児となった。中国戦線からはなばなしい戦果が伝えられ、量産も軌道に乗ったが、零戦が太平洋上に無敵の勇姿を現わし、ほんとうにその真価を発揮するまでには、もうひとつ、厳しい試練が待ちかまえていた。第二号機による奥山操縦士の事故から、一年後の昭和十六年四月、二人目の犠牲者が出たのである。当時、ヨーロッパでは、一年半まえにおこった欧州大戦でフランスが敗退し、イギリス、ドイツのあいだで激しい航空戦が続いていた。このけわしい国際情勢のなかにあって、海軍航空部隊は、日夜、実戦にもまさる猛烈な飛行訓練を続けていた(事故はこうした中で発生した)。とまどいから勝利の感激へ?(四一年ーニ月八日アジア太平洋戦争開戦の報を受けて)海軍航空隊は、零戦と艦攻、艦爆とのコンビ、零戦と陸攻とのコンビを主力として戦うつもりだろうが、航空先進国を誇る米英が相手では、中国大陸でのような一方的勝利は望むベくもない。零戦は、ニー型を主としてすでに海軍に五百二十機ほど納入されていたが、大陸に駐留するものや内地に配備されたもの、修理中のものなどを除くと、すぐに外戦に出動できる状態の零戦は、三百数十機にすぎないはずだ。そのころ海軍のパイロットに聞いたところによると、緒戦においては零戦一機で敵の戦闘機二機から五機に対抗できると考えられ、母艦に搭載する機種の数の割合にも、その考え方があらわれているという。?当時の新聞を開いてみると、「ハワイフィリピンに赫々たる大戦果」というような大きな横見出しのもとで、この二つの大勝利により、アメリカ海軍は、致命的な深傷を負ったという報道がなされている。だが、私がもっとも知りたかった零戦の戦いぶりについては、どこからも情報がはいってこなかった。? ? ? 「あれだけの大勝利なのだから、零戦もきっと大活躍しているにちがいない。」私としては、こう想像しているよりほかなかった。? 右の堀越二郎の著書に、零戦は四〇年末には約ーニ〇機が生産されたとあることから、日米開戦の可能性に備えて、大車輪で増産がはかられたことがわかる。さらに海軍航空本部の指示でライバルである中島飛行機会社にも生産させることにしたのである。堀越二郎『零戦の遺産 設計主務者が綴る名機の素顔』には、零戦の月別生産機数実績の表があるが、それによれば、アジア太平洋戦争がはじまった四一年ーニ月までに、三菱重工では約五五〇機、中島飛行機では約一五機であった。三菱重工の四二年の生産機数合計が六九二機、中島飛行機が六七四機であるから、開戦までにいかに急増産したかがわかる。? 「零戦一機で敵の戦闘機二機から五機に対抗できる」というのは、真珠湾攻撃の赤城飛行隊長の板谷茂少佐が、「自分の胸算としては、わが一機をもって、敵の三機に対抗し得る」と語っていたと源田實『真珠湾作戦回顧録』にも記されている。そして源田は「開戦当初の実績は、彼の予言が間違っていなかったことを示している」と記している。? 澤本頼雄は四一年四月から海軍次官であったが、前掲の『海軍戦争検討会議記録』の特別座談会において、「(四一年)九月二十六日頃、山本長官、上京の際、長官は「長官としての意見と、一大将としての意見は違う。長官としては、十一月末までには一般戦備が完成する。戦争初期は何とか戦えるが、南方作戦は四力月よりも延びよう。艦隊としては、零戦、中攻各一〇〇〇機ほしいが、現在零戦は三〇〇機しかない。しかしこれでもやれぬことはない。一大将としていわせるなら日本は戦ってはならぬ。結局は国力戦になって負ける」といわれた」と述べている。? 山本五十六のスタンスは、親友であった堀悌吉が戦後書いているように、「対米英戦争に就いては大義名分の上より及び国家安危の顧慮よりして、根本的に反対たりし事。衷心より時局の平和解決を熱望したりし事」「艦隊司令長官としては、国家の要求ある時には、たとえ個人として反対なりとするも、勝敗を顧慮することなく、最善をつくして其の本務に一途邁進すべきものなりとなせ道のる事」というダブルスタンダードにあった。
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(了)
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