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平成の虚無僧一路の日記

「洞爺丸」沈没事故 

2011年09月20日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



昭和29年(1954)、9月26日、台風15号により、
青函連絡船の「洞爺丸」が函館湾で沈没した。他に
4隻の青函連絡船も沈没し、死者 1,430名。

1912年のタイタニック号(1,513名死亡)に次ぐ
海難事故と、世界に報道された。

当時私は6歳、小学1年。新聞報道や映画ニュース
で その惨状を記憶している。

「なぜ 台風の中、船を出航させたのか」という怒り
の声が渦巻き、その怒りは、洞爺丸と運命を共にした
船長に浴びせられた。船長の妻は、夫の死を悲しむ暇も
なく、連日遺体収容所に赴いて遺族の前で「Kの妻です。
大変申し訳ありませんでした」と泣きながら謝り続けた。

妻の手記が、即雑誌に掲載された。

『夫はこれまで、どんな事態に直面しても、絶対に
慌てた事はありませんでした。(中略)生き残った
船員の方から、当夜 最後までブリッジに頑張り、
仁王立ちになった夫の行動を知ると同時に、世間の
批判は益々募るばかりでした。夫の遺体は揚がらなくとも、
乗客や船員の遺体は全部遺族の元に届けていただきたい。
私達母子はどんな厳しい非難も覚悟の上です。許されない
事でしょうが、任せられた多くの生命を失った夫の罪を、
どうかこの母と子に免じて許してやって下さい』。

船長の遺体は、一週間後、救命具を付けず、愛用の
双眼鏡をしっかりと胸に握り締めたままの姿で発見
された。それは明らかに、船長としての職務を全うした
“殉職”だった。

当時の気象観測技術では、台風の進路を正確に把握
することはできず、船長の経験と勘による判断を
“ミス”として責任を問うのは酷なことだった。
だが、世論の批難を受けて、海難審判は「人為的事故」
と結論づけた。

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