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【再録】天皇は何故「満州事変」から学ぶのか。中国にとっては屈辱の日である「9・18柳条湖事件」 

2021年09月18日 外部ブログ記事
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「九・一八(チュウ・イッ・パァ)事変」(柳条湖事件)から90年です。2015年1月5日の【天皇は何故「満州事変」から学ぶのか】を再録します。
中国・瀋陽市「九・一八歴史博物館」2010年7月撮影:管理人 2000年7月にも訪問しています。



奉天忠霊塔の富山県有志が献納した石碑と中国文説明プレート





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「天皇陛下の新年の感想」 全文 『昨年は大雪や大雨、さらに御嶽山の噴火による災害で多くの人命が失われ、家族や住む家をなくした人々の気持ちを察しています。また、東日本大震災からは四度目の冬になり、放射能汚染により、かつて住んだ土地に戻れずにいる人々や仮設住宅で厳しい冬を過ごす人々もいまだ多いことも案じられます。昨今の状況を思う時、それぞれの地域で人々が防災に関心を寄せ、地域を守っていくことが、いかに重要かということを感じています。本年は終戦から七十年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。この一年が、我が国の人々、そして世界の人々にとり、幸せな年となることを心より祈ります。』 管理人は、天皇明仁が「戦争」と言われたときに「満州事変に始まる始まるこの戦争」と定義されたのかを考えました。一路、戦争の出来る国づくりに猪突猛進している安倍晋三総理大臣に「この戦争」をしっかりと学んでもらいたいと考えているのでしょうか。 歴史研究者は「十五年戦争」又は「アジア太平洋戦争」と定義しています。 日本近現代史研究家江口圭一氏は『満州事変と日中戦争とアジア太平洋戦争とはばらばらの戦争ではなく、相互に内的に関連した一連の戦争であった。満州事変の延長上に華北分離工作を介して日中戦争が発生し、日中戦争の延長上に第二次世界大戦と連動してアジア太平洋戦争が生起した。しかも、満州事変の産物である満州国を解消するか否かが日米交渉の最大の争点の一つであって、その意味では満州事変とアジア太平洋戦争との間にも直接的な関連が存在していた。さらに日本の中国にたいする武力侵略はこの十五年にわたって間断なく継続しており、拡大の道を歩んでいた。以上のような連関性において、これら三つの戦争はは十五年戦争という総称のもとに一括される。』と青木書店刊「十五年戦争小史」で述べています。 管理人は、「靖国神社・遊就館」の平和ガイドの体験から、十五年戦争に到る、明治維新から日清戦争と日露戦争との連関性を重視しています。 2012.4.14 於・石川四高記念館で管理人が講演した時のレジュメの一部を掲載します。「金沢から旅順へ そして上海、南京へ 九師団の軍靴が踏みつけた中国大陸」満州事変81周年記念・むぎわらぼうし学習会 レジュメ (1)『戦争には必ず「前史」と「前夜」がある。』(都留文科大学笠原十九司教授談)(2)日清戦争で台湾・澎湖諸島を植民地にしたことで軍事大国として欧米列強に仲間入りをした。(3)北京議定書により中国大陸に日本軍が駐留する権利を欧米列強諸国と並んで獲得した。【資料A】(4)しかし満州における遼東半島の権益を「三国干渉」によって失ったことでより「臥薪嘗胆」を合い言葉に、さらなる軍事大国を目指した。(5)日露戦争によって関東州と南満州鉄道とさらには鉄道守備隊(後に関東軍)という中国大陸侵略の橋頭堡を獲得した。そして韓国に対する覇権をもロシアに認めさせた。【資料B】遼東半島(関東州)の租借権、南満洲鉄道の権益(「鉄道付属地」の炭鉱の採掘権などを含む)は「十万の英霊、二十億の国幣(国費)」という莫大な犠牲と引き換えに得たほとんど唯一の戦果であり、以降、日本人は満州という土地に特別な感慨を抱いた。【資料C】日清戦争の戦費(国幣(こくど)) 2億2500万円日露戦争の戦費(国幣(こくど))17億2000万円(毎日新聞社刊「昭和史」第3巻より)(6)「関東州・南満州鉄道・関東軍を基軸とする満蒙における特殊権益」が侵されると危機感をもった軍部が柳条湖事件を起し、それを口実に東北4省を侵略した。(7)植民地を拡大することが出来ない国際環境から「満州国」という傀儡国家をつくった。(8)満州国を足場に治外法権と租界をもち、列強と共に中国を半植民地的に支配していた。(9)数十万の血で贖った中国大陸から撤退せよという「ハル・ノート」は宣戦布告である。【資料D】海軍軍令部総長永野修身(おさみ)の発言(太平洋戦争開戦当時)靖国神社後援ドキュメント映画「わたしたちは忘れない」から 『米国の主張に屈すれば亡国は必至とのことだが、戦うもまた亡国であるかも知れぬ。だが、戦わずしての亡国は魂を喪失する民族永遠の亡国であり、最後の一兵まで戦うことによってのみ死中に活を見出し得るであろう。 戦ってよし勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残ればわれらの子孫は再起、三起するであろう。』 【資料A】北清事変〔中国では辛丑(しんちゆう)和約。欧米では"Boxer Protocol"〕 1901(明治33)年9月7日に北京で調印された義和団事件における列国11ヵ国(ドイツ・オーストリア・ハンガリー・ベルギー・スペイン・アメリカ・フランス・イギリス・イタリア・ロシア・日本)と清国・義和団との戦闘の事後処理に関する最終議定書。日本の外交文書における正式名称は、北清事変に関する最終議定書である。主な内容は(1)賠償金4億5000万両(2)北京に中国人の居住を認めぬ公使館区域を設定して外国軍隊が駐屯。(3)北京から山海関までの沿線要地における外国の駐兵権を認める。(4)排外的団体に加入することを禁止し、禁を犯すものは死刑。 その後日本は北京周辺の駐兵権を廬溝橋事件など華北侵略のテコとして使った。【資料B】日露講和條約 1905(明治38)年9月5日「ポーツマス」ニ於テ記名 10月14日批准 (略)第二條 露西亞帝國政府ハ日本國カ韓國ニ於テ政事上、軍事上及經濟上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルコトヲ承認シ日本帝國政府カ韓國ニ於テ必要ト認ムル指導、保護及監理ノ措置ヲ執ルニ方リ之ヲ阻礙シ又ハ之ニ干渉セザルコトヲ約ス 第五條 露西亞帝國政府ハ清國政府ノ承諾ヲ以テ旅順口、大蓮並其ノ附近ノ領土及領水ノ租借權及該租借權ニ關聯シ又ハ其ノ一部ヲ組成スル一切ノ權利、特權及讓與ヲ日本帝國政府ニ移轉讓渡ス露西亞帝國政府ハ又前記租借權カ其ノ效力ヲ及ホス地域ニ於ケル一切ノ公共營造物及財産ヲ日本帝國政府ニ移轉讓渡ス 第六條 露西亞帝國政府ハ長春(寛城子)旅順口間ノ鐵道及其ノ一切ノ支線並同地方ニ於テ之ニ附屬スル一切ノ權利、特權及財産及同地方ニ於テ該鐵道ニ屬シ又ハ其ノ利益ノ爲メニ經營セラルル一切ノ炭坑ヲ補償ヲ受クルコトナク且清國政府ノ承諾ヲ以テ日本帝國政府ニ移轉讓渡スヘキコトヲ約ス 追加約款  兩締約國ハ滿洲ニ於ケル各自ノ鐵道線路ヲ保護セムカ爲守備兵ヲ置クノ權利ヲ留保ス該守備兵ノ數ハ一「キロメート」ル毎ニ十五名ヲ超過スルコトヲ得ス而シテ日本國及露西亜國軍司令官ハ前記最大數以内ニ於テ實際ノ必要ニ顧ミ之ヲ使用セラルヘキ守備兵ノ數ヲ雙方ノ合意ヲ以テ成ルヘク小數ニ限定スヘシ(略)【資料】「日本陸海軍事典」(新人物往来社)より「事変」とは「国際間の宣戦布告なき戦争をいう」【広辞苑】『満州事変』 1931年(昭和6)9月18日、奉天 (洛陽)郊外柳条湖付近の鉄道爆破事件を契機に、関東軍が「不拡大方針」の閣議決定の中、一挙に満州(中国東北部)全域の軍事占領を図り、翌年3月1目には宣統帝(愛新覚羅薄儀)を頭首とする満州国を誕生させ、1933年5月3日の塘活停戦協定によって、事実上の終結をみた事変である。日露戦争の勝利にょって中国大陸に権益を獲得した日本は、じ後その権益の拡大を主要国策としていたが、ワシントン会議において、その拡大に歯止めをかけられた。更に中国においては、五・四運動を契機とした民族主義運動が高揚し、当時の革命外交と相侯って、中国特に満州における日本権益の回収熱が沸騰し始めた。これら中国ナショナリズムに基づく反日・侮日行動の激化は、在満日本人、特に対ソ防衛第一線を自認する関東軍に危機感を抱かせ、板垣征四郎高級参謀・石原莞爾作戦参謀を中心に、その対応を余儀なくさせた。 軍中央部も満州問題解決のための武力発動を検討していたが、国内外世論・軍の態勢などを考慮して1932年春以降と見積もっていた。しかしながら関東軍は、それら中央部の思惑を無視し、板垣・石原参謀を中心とする一部の者の謀略により鉄道爆破事件を自らの手によって計画・発動し、関東軍の全力を展開し、全満州の一挙占領を狙ったのである。二〇日には南満州鉄道沿線の主要な要点を押さえるとともに、1932年の初旬には全満州の主要な地域(吉林、斉々哈爾(ちちはる)、錦州、哈爾浜(はるびん))を占領し、じ後、域内の治安回復のための作戦へ移行した。この間、国内では政変に基づく事変不拡大方針の消滅、事変成功への国民の熱狂的な受け入れがある一方、中国の提訴に基づ国際連盟リットン調査団の受け入れ、国際連盟からの脱退、満州国の誕生・認可など、国際社会からの孤立化に向かって進まざるを得なくなっていった。(白石 博司)『柳条湖事件』 満州の既得権益に対する中国の侵害に危機感を持った関東軍は、外交努力による問題解決を諦め、満蒙の一挙武力占領を企図した。その武力発動の口火として、1931年(昭和6)9月18日、奉天(瀋陽)駅東北方約8キロの柳条湖付近で満鉄線路を自ら爆破し、中国兵の仕業とし、満州事変のきっかけをつくった事件である。爆破の実行は、板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐らの計画のもと、独立歩兵第二大隊第三中隊の河本末守中尉と張学良顧問今田新太郎大尉らが担当した。爆破の規模は諸説あるが、直後に奉天行きの上り列車が通過していることから、そんなに大規模のものではなかった。爆破を契機に、関東軍は張学良軍の本拠地である北大営・奉天城を攻撃するとともに、一挙に営口、鳳凰城、安東等の南満州鉄道沿線の主要な地域を押さえ、21日には吉林を占領し、じ後、満州全域(東四省)へ拡大した。本来の計画であれば、9月下旬に実行の予定であったが、参謀本部作戦部長の建川少将の来満を知り、急遽、日程を早めて実行したものである。(白石 博司)『万宝山事件』 1931年(昭和6)7月、長春北方30キロの万宝山付近において日本官憲保護下の朝鮮人農民と中国人入植者の間に起こった開墾地及び水路構築をめぐる衝突事件。この直後に起こった「中村大尉殺害事件」も加わり、「満蒙権益の危機」を訴える対中国強硬論に拍車をかけた。関東軍は、これを契機に武力発動を中央部に具申したが、時期尚早として受け入れられなかった。 しかし、満州における既得権益の危機を日本国民に大きく印象付けた事件であった。事件の原因は、この年の4月、中国人?永徳が中国人地主から借り受けた土地を朝鮮人入植者に転借したことにあった。すなわち、土地を借り受けた朝鮮人入植者の開墾・用水路工事が、現地中国人農民との利害と衝突したのである。更に本事件は、7月1〜2日に日中官憲を巻き込んだ武力衝突に発展・拡大した。更に、『朝鮮日報』長春支局記者・金利三が、2日の号外、及び4日に事件を衝撃的・扇動的に虚偽の報道(中国官民の不法行為により朝鮮農民が死傷した……)をしたことにより、仁川を皮切りに京城・平壌さらに朝鮮全土に反中国大暴動事件が発生し、9日までに109人の死者と多くの負傷者を出した。その反動として中国各地では対日ボイコット運動が激化し、この反日運動の高揚が、在満日本人、特に関東軍に危機感を抱かせ、満州問題の武力解決へ一歩踏み出させる要因となったことは否定できない。(白石 博司)『中村大尉事件』 1931年(昭和6)6月27日、対ソ作戦のための兵要地誌調査の目的をもって興安嶺方面を旅行中であった参謀本部の中村震太郎大尉、井杉延太郎予備騎兵曹長と通訳2名が、?南・索倫の中間地区で中国・屯墾軍第三団長関玉衝配下によって殺害された事件である。本事件は万宝山事件とともに満州における「満蒙権益の危機」を日本国民に大きく印象付けた事件であった。7月下旬になって、この事実を知った関東軍は、陸軍軍人に対する加害事件として、軍による交渉、中国との共同調査、状況によっては実力調査をと、軍主動による解決を林久治郎奉天総領事に申し入れたが、同意を得られなかった。 五・四運動以来の中国民族主義の高揚とともに、1928年(昭和3)の張作霖爆殺事件、蒋介石の北伐の完成、張学良の易幟等により満州(東三省)にも国民革命思想が浸透し、逐次、国権回復を呼号する反日運動が激化し、在満日本権益の危機が深刻なものになってきていた。関東軍、特に石原参謀らは、中村大尉事件は満蒙問題解決のための武力発動の絶好の機会であると判断し、軍中央部に具申した。外務省は、謝罪、責任者の処罰、賠償、将来の保障を要求して中国側と交渉を開始した。当初、否定していた中国側も、事態の重大性を感じ、再調査の結果、中村大尉の殺害を認めたが、次の交渉に入る以前に柳条湖事件が勃発してしまったのである。(白石 博司)
(了)

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