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平成の虚無僧一路の日記

彰義隊士の乱暴狼藉 

2021年06月27日 外部ブログ記事
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1968年6月26日の事件簿
慶応4年4月11日、江戸城が無血開城し、上野寛永寺で謹慎していた徳川慶喜は水戸へ移送された。その時、渋沢成一郎ら一橋家臣や幕臣、脱藩者で結成された彰義隊は慶喜の護衛を行おうとしたが、寛永寺に止め置かれた。
彰義隊は、新政府軍と一戦交えようとする脱藩兵や博徒も集まってきて最盛期には3000〜4000人規模に膨れ上がった。渋沢成一郎は江戸を退去し日光へ退く事を提案したが、天野八郎は江戸での駐屯を主張したため分裂。
そして、彰義隊は江戸市中で新政府軍に対して抵抗を試みた。
5月7日(1868年6月26日)次の三件の事件が起きた。

同夕方、根岸付近で薩摩藩兵3人が彰義隊士8人〜9人と遭遇し、惨殺された。


同夜、尾張藩の足軽1人が私用で四谷付近へ出掛けたところ、10人ほどの旧幕臣に襲撃されて手傷を負った。


同午後6時頃、肥前藩士2人が、上野北大門町で80人ほどの集団に斬りかかられ、1人が斬殺され、もう1人は深手を負っ藩邸へ逃げ帰った。


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そして、5月15日(7月4日)未明、大村益次郎が指揮する新政府軍は、寛永寺を包囲し、雨中総攻撃を行った。午後から肥前佐賀藩のアームストロング砲が彰義隊を圧倒し、1日で戦いは終了した。彼らの多くはから威張りで、いざ戦闘となると多くが逃げ出したとも。記録上の戦死者は彰義隊105名、新政府軍56名と言われている。逃れた彰義隊士の一部は会津へと向かったが、彼らは各地で略奪暴行をくり返し、会津にはいっても評判はすこぶる悪かった。

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