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平成の虚無僧一路の日記

6/14 明智光秀の最期 

2021年06月19日 外部ブログ記事
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天正10年(1582年)6月13日は山崎の合戦。明智光秀の最期。

6月2日の本能寺の変で織田信長を討った後、明智光は坂本城に入り、6月5日には安土城に入って信長が貯蔵した金銀財宝を開放し、9日には朝廷に銀500枚、京都五山や大徳寺に銀各100枚を献納、勅使の兼見にも銀50枚を贈った。
備中高松城攻の最中にいた羽柴秀吉は、本能寺の変を知って、急遽、毛利氏と和睦し、山陽道を大返し。変から11日後の6月13日(1582年7月2日)天王山の麓の山崎(現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地域)で明智軍と対峙。
ただし、秀吉とその配下の本体は疲れ果てて、山崎で休息しており、高山右近と池田恒興らが光秀の重臣斎藤利三を包囲し、勝敗が決したとも。
13日深夜、光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)において落ち武者狩りに襲われ、小栗栖村の長兵衛という百姓に槍で衝かれたとされる。

光秀のものとされる首は、翌14日本能寺でさらされた。その後17日、斎藤利三の屍とともに京都の粟田口(現・京都府京都市東山区・左京区)さらされた。

ただし、「明智光秀の首」として届けられたものはいくつもあり、小栗栖村の長兵衛に渡された報奨金も少なかったことから、これも偽首だったか。それで光秀の生存説が多く存在している。

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