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平成の虚無僧一路の日記

6/2 本能寺の変 織田信長の最期 

2021年06月19日 外部ブログ記事
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6月2日は、天正10年(1582年6月21日)本能寺の変。
明智光秀が織田信長を弑した日。信長の嫡男・織田信忠も攻められ、自刃して果てた。

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明智光秀が織田信長を弑した日。信長の嫡男・織田信忠も攻められ、自刃して果てた。
信長は、3月11日に武田勝頼を討ち、4月10日に甲府を立ち、富士の裾野を回って4月12日、駿河興国寺城(静岡県沼津市根古屋/国の史跡)で北条氏政の接待を受け、江尻城(静岡市清水区江尻町/本丸跡=清水江尻小学校)を経て4月14日、田中城に入城。4月16日に浜松城。浜松からは船で吉田城(現・愛知県豊橋市)に至り、4月19日に清洲城。4月21日に安土城へ帰城。
5月15日より3日間、安土城で徳川家康と武田一族の穴山梅雪ら一行をもてなした。その接待役が明智光秀だったが、17日、備中高松城攻めの羽柴秀吉から援軍要請の手紙が届いたため、信長は光秀に出陣を命じる。そこで光秀は急遽17日中に居城坂本城に戻り、出陣の準備を始めた


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6月1日、光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣した。『川角太閤記』によれば「京の森成利(蘭丸)より飛脚があって、「中国出陣の準備ができたか、信長様が検分したいとのお達しだ」と物頭たちに説明して、午後4時頃出発した。
6月2日未明、桂川に到達。戦闘準備にはいる。家臣には目的を知らせず、ある者は「家康を討つ」のかと思っていたという。
ドラマでは明智光秀自ら本能寺を襲ったと描かれているが、斎藤利三と明智秀満が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、光秀は寺から約8km南の鳥羽に控えていたとされる。
戦後、明智勢は信長の遺体を探したが見つからなかった。
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阿弥陀寺(上立売通大宮)の記録によると、大事を聞きつけた玉誉清玉上人が本能寺に駆けつけ、裏手の墓地で信長の遺骸を火葬しようとしている武士の一団に遭遇、上人らは信長の遺灰を法衣に詰めて運び出し、阿弥陀寺は後に廃寺となりも、寺と墓は天正15年に上京区鶴山町に移転している。

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