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平成の虚無僧一路の日記

文化8年から明治8年までの記録 

2021年06月05日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



母方の曽々祖父が書き残した『私記』を、紐解いてみた。曽々祖父は文化8年(1811)の生まれ。それから明治8年(1876)まで、65年の回想録。会津藩は ロシアの侵略に備えて樺太警備につき、続いて、ペリー来航に備えて 房総・三浦の警備。そして京都守護職。あげくのはての戊辰戦争。その果て、下北半島へ移住して、辛酸を舐めた。曽々祖父は11歳で父を失い、伯父に育てられる。妻にも先立たれ、二人の息子も戊辰戦争で失う。60歳で下北半島への移住だった。これ以上の悲しみは無いと思うのだが、驚くのは「天災、地震、水害、火事の多さである。毎年のように災害に見舞われている。安政2年(1855)の大地震などは「煙草を一服吸う間くらい揺れが長かった。死者10万4千人」と書いている。(ネットで調べたら「1万4千人」。誇張か?)会津藩は、江戸湾にお台場を築いていた。「建物が崩れ、助け出したくとも大砲が邪魔して助け出せず、やがて火が出て、中の者は多く焼け死んだ」とある。この年は、大きな地震だけで3回。余震は300回に及んだという。戊辰戦争で家を焼かれ、廃墟の中から ようやく復興した明治21年、磐梯山の大爆発があった。天はどうして こうまでも無慈悲なのか。今の東北地方の震災に思いを合わせる。東北人は苦労ばかりしてきた。東北はホントに貧しかった。藁葺き屋根に土間での農作業。会津人は、私も父も祖父も、冬でも、家では靴下を履かない。下北での苦労が4代の子孫まで染み付いているのだ。それが、下北半島の六ヶ所村に行った時、ガイドさんが「ここは、日本一豊かな村です」と紹介してくれた。原子力の施設のおかげで、各戸、水洗トイレに冷暖房完備だという。福島原発もそうだ。産業も無く、高度成長にとり残された寒村で生きていくには、原発は救いの神だった。それが今回の惨事。幸福の高い代償だったか。

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